雲の湧き上がるように。


<< June 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>


スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています


| - | - | - |
世界について
比較文化論とか、そういう類いの「比較〜」という学問の研究手法がある。
なぜ、比較なのかというと、それの内在的な意味というものは
本来的に内在している主観者にしか正しく理解できないにもかかわらず
それを知りたい、という時に、なんらかの尺度で
もっと身近であるところの何者かと比べながら評価することで
それぞれの意味をたどっていく試みといえる。

そして、身近であった意味体系の中に、潜在的な機能を発見したり
あるいは、ある種の体系に共通する構造を発見することまでできれば、
この研究手法としては、よくできたというところだろう。

で、まぁ、それの話をしたいのではなくて、
「世界」のことなんだ。

「世界」というのは上に挙げた、外部からその内在的な意味を
正しく理解することが難しいもの、要するにひとつの閉じた意味体系としておこう。
これを理解し、評価するのが難しいから、異なる社会にぶちあたることの増えた
近代以降、「比較〜系」の学問領域が増えたわけだけど、
単純に評価することができないのかとふと、考えた時にね、
そんなことないなと、おもったのよ。

「世界」を評価するとは、僕らが感情を持つことと同義じゃないのかと思ったんだ。
だいぶ、飛躍していることは認めるけれど、
何かすとんと納得できてしまう面があったわけだ。

「世界」と僕らはどういう関係にあるだろうか。
「世界」は物質ではなくて、意味体系だ。
これは現実的に言っても、そうあるほかない。
なぜなら、「世界」をイメージできても「世界」をすべて目の当たりにすることはないのだから、この言葉を使っている人はイメージ(それも何らかの秩序だったイメージ)としてしか使うことができない。


秩序だったイメージに反駁する人を想定して、以下書き置きする。
秩序はすべて裏切られるというのは、ひとつの法則で、なんというか、
ほら、マーフィーのなんとやらとかでおもしろおかしく語られる一つのルール、秩序だ。
根本的な無秩序というのを世界に対して仮託することは不可能ではないけれど、
起きていることは起きていることであるということさえ確かなら、
たとえば、「富士山が噴火して噴火しなかった」とかでない限り、
そこに、意味がないわけでもないし、意味があるのであれば、機能と流れがあって
出来事とそれに巻き込まれる何者かという関係性「秩序」があると言っていいと思う。


イメージであるということは、僕らが想像している対象が「世界」だということだ。
僕ら、でなくて、僕でもいいが、僕が想像している世界は僕らが想像している世界だ。
というのは、皆が同じ世界をイメージするというのではなくて、
ただ、色々と皆が世界に対して考えをいただいているであろうという空間に対して
「世界」と名付け、
同時にそれは、僕によって閉ざされている。

僕らはそれでもって生きているけれど、その中で生きてはいない。
意味体系は意味体系だから、お腹は膨れないし、セックスもできない。
ただし、様々な動機付けを与える。

僕は世界の中で君たちを探すことができるが、
君たちと出会うのは世界の外なんだ。
そして、僕によって閉ざされている世界と同様に
君によって閉ざされている世界があることを認める。
それが、僕らの世界の定義だからだ。

世界とは僕らが現実的な接触を繰り返しながら
意味体系を積み上げていく際の年輪としても見ることができるが
ただの痕跡としてあるわけでもなく、それ自体が僕らでもある。
僕らという言葉が有効になる地帯で、世界は僕らを内包する。

君たち、としてならどうだろう。
純粋にあちら側に世界を認めることはできるが、
当然、それをさらに包み込む世界も僕たちは考える。
この時のこちら側の世界はダブルスタンダードのまま、
(あちら側と対等な僕の世界と、あちら側を飲み込む僕の世界と)
現実的な接触を待つだろう。

さて、と。

世界を評価することと感情についてだ。
感情が何かの判断なしに起こることは考えられないから、
対象を「世界」としてとらえるか否かが感情の起点につながるかどうかを
考えるべきだと思う。

疲れたからこの辺にしよう。

| 世界が閉じる前に | comments(0) | trackbacks(3) |
現在のレジュメ
時間について
・実在かどうかについての問題
(むしろこの問いは実在の定義を確かめる作業)
・共にあるということは時間の外にあるのか?
(純粋な時間の存在について)
・うねりということ

生きることについて
・置いていかれるという感覚
・自殺を禁止する倫理について
(その大前提にあたる許し、について)
・与えられたもの、許されたもの
・世界を閉じるということ

それでもなお開かれた世界にあって生きること。

| - | comments(0) | trackbacks(0) |
午前0時
午前0時
夕方は訪れない。

はずれのほうに飛んでいってしまった。

霞のような、
さげすみ、ひらり。

炬燵がないので
中心が分からない。

部屋の端に紙を貼付けている。
貼付けられた紙は揺れている。
はだかで揺れている。

恥知らずは
夜を越えて進む。

蛍光色の月がほどけて、明日を迎え入れる。

| - | comments(0) | trackbacks(2) |
ふっと舞い戻る。
22世紀リアリティ読んでる?
http://web.mac.com/feiron_t/iWeb/22reality/
なかなか読めないと思う。セミプロと思って読んで。

それはともかく、まだたくさんの人が
訪れていることに僕は驚いた。
何も書いてないのに40hit越えるっておかしいよね。

せっかくだからひとつ小話をしようか。
言わなかったことが大切だという時もある。

小泉首相は「いつ参拝しようが関係ない」とのたまわり
賛成、反対なんかまたも燃え上がってますが、
そのコメント自体はあまりにまっとうで無意味。

「明日の中日対巨人は勝つか負けるかするでしょう」と
同じくらい無意味。

参拝する時期に焦点をあててもしょうがなくって
だから何故参拝するのかにあくまでこだわるべきで
その説明は「日本人」としてしたと思うけれども
「中国の隣にいる日本人」としてまともに返したことはないと思う。

哀悼の意は同時に尽くすべきで、
戦渦で亡くなった人を敬うなら日本の靖国に行って
中国でも参拝したらいいのじゃないだろうか、と思う。
小泉的に筋を通すべきなのは靖国に行くか行かないかよりも
中国にどう向き合うかという話だと思うよ。
もし、僕の知らないところでそうしているなら
それはそれでいいことだし、そうでないなら
きちんとしたほうがいいんじゃない?と思う。

救われなかった言葉たち、というのは
僕らが無意識に背負ってる大気圧に似て、実は重い。

| - | comments(1) | trackbacks(6) |
移転のお知らせ
色々あって、今後はここで書きます。
よろしく。写真もあるよ。
http://web.mac.com/feiron_t/

| - | comments(0) | trackbacks(0) |
そして、はじまり。
何がいけなかったのかは
まぁ、いろいろと理由がある。

儲からないイベントを意地はってやり続けているだとか
バイト先が閉店したあと、アテにしていた次の仕事が
どうも、うまく調整つかなくってギャラが入らなかったとか
途中まで進学するつもりだったから
失業保険を申請するのが遅れたとか。
(遅れてなければ今頃もらえてるはずなのだ)

請求書を寝床の横に貼付けている。
現在、クレジットその他もろもろの
請求額が全部で14万もあった。
そのうち、すぐに払うべきものは10万ほど。

手持ちの現金はまったく足りない。
仕方がないので、コンビニに行く。
何故かマンガを読んでしまう。
ネウロの展開は非常に好感がもてる。
ミステリが、謎解きを物語の駆動原理にしながら
哲学的な主題に届こうとするのに似ている。
(ミステリ自体は読まないけれど、
東浩紀の対談集などでよく言及されるのでそういう印象をもっている)

違う。
キャッシングに来たのだ。
「ご利用は計画的に」とかチワワが看板をぶらさげている
わけでもない。
なんの障壁もない。
それが、どうにも恐ろしく思える。

ATMの前に立って、
10万を引き出す。
当面の、請求書を片付けるために。

部屋に戻って、家賃を払う。
「遅れる時は連絡さえしてくれればいいですよ」
謝る僕に家主が言う。
まさかそれが借金した金とも思わないだろうけれども
若干の違和感はあったかもしれない。
なにせ、その違和感は僕自身のものだったから。

しばらくすると、日雇いバイトの応募をしていたところから電話がかかる。
この借金はとりあえずの請求金額を払うためで
来月に加算される家賃、生活費ではない。
それを稼いでさらに、借金を減らすべく働かねば。

今日は彼女の時間があいたらしく
午後に少しデートをする。
さて、どうやって話を切り出そうか。

| おいしくない借金生活 | comments(0) | trackbacks(1) |
真偽と存在
論理は価値判断をしないのかどうか、
という話よりも先に
存在は真偽にかかわるのか、という点から考えたほうがよい気がした。

たとえば、テツという存在は
日本人で無職の男性である。
明日、誕生日を迎える。

そういう存在であるのは確かなのだけれど
「テツ」という存在が実は
アフリカに生まれたとしたら、というように考えることができるのは
なんでだろうか。

そこにある、「テツ」という存在はなんだろうか。
何かを仮定する時、そこに何が共通項になっているのか、
ということを考え出しても、無駄である。
仮定する場合、現実にある「テツ」と
仮定された「テツ(x)」に共通項はあるだろう。
そして、「テツ(y)」との間にもあるだろうが
「テツ(x)」と「テツ(y)」に共通項があることをまったく保証しない。
その場合のテツ性なるものは任意に取り出された
要素でしかないわけだ。

その場合、「テツ」という存在の真偽というのはナンセンスな問いにしかならない。
(いや、という留保もある。が、ちょっと待ってね)

でも、これは仮定の話だから
現実の「テツ」には関係のない話じゃないの?
ってことも言えそうだけれど、そうでもない。
現実の「テツ」というのは果たして
確定したものだろうか。
「テツ」には未来がある。
(よいものかどうか別として、願わくはよいものを)

それはとても現実的なことであるが
果たして未来は仮定としてしか話し得ない。

また、別に現時点での「テツ」を話題にしてもよい。
完全に把握していなければ
その定義は可能な(つまりありえそうな範囲で)要素の
いくつかを取り上げて、命題を作りあげるわけだが
それは仮定された「テツ(z)」でしかないのではないだろうか。
そして、おおよそ完全に把握できるものというのは
特に存在のあり方を把握できるように切り取ったものでしかない。
(それはいったいどのような切り取り方のことだろう。
生物学の猫と、物理学の猫と、実際に僕らが出会う猫はどのように切り取られるのだろう)

結局、存在は真偽によって
確かめられるものというよりも、
その命題を作り上げる前提として仮定されるものだということである。
このことが存在に関する命題を無効にするわけではないが
僕らはそんなに存在に関する命題ばかりを取り扱うわけでもない。
というか、その時の命題は実は存在に関する命題なのではなく
属性と属性に関する命題でしかないということだ。

「ナオミが美しい女で、美しい女は価値がある、以上のことから美樹は価値がある」
とかそんなのは実はナオミについてなんか一言も語っちゃいない。
「美しい女」と「価値」の話しかしていない。
なぜなら「ナオミが美しい女」という命題は
定義ではあるにしても、それが真であることを保証する命題ではないからだ。
そして美樹を知ることは彼女が美しい女だということを知ることではない。

この人がナオミであることを知ることが
ナオミを知ることだ。

さっき、

>「テツ」という存在の真偽というのはナンセンスな問いにしかならない。

なんてことを言った。
留保していたのは定義された「テツ」への問いかけがナンセンスで
あるということであって
現に存在している「テツ」を「テツ」として認識すること
そしてそれを問いかけることは決して無駄ではない。
何故なら、それは僕らを駆動する
もっとも根源的な価値への問いかけだからだ。

現に享受しているものは存在している。
それは真偽以前の問題で、確かに僕らが感覚したなにかだ。
それを名付けていくこと、それはすでに欲望に突き動かされてのことだ。
意識的にか、無意識か、プラスか、マイナスか問わず
名付けようとする行為はすでに価値によって駆動されている。

| 境界の思考(同心円、分節) | comments(0) | trackbacks(0) |
| 1/25 | >>