雲の湧き上がるように。


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記述のあり方
シュレディンガーの猫の話というのは
つまるところ記述の方法についてであって
生きている状態と死んでいる状態が混ざっている状態というのは
あくまでも「そう記述すべき」と指示しているだけで
別にそういう状態が現前しているわけではない。

いや、観察者にとってはそうだが
それはやはり当事者のことではない。
しかし、僕は何の当事者なのだろうか。

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「私」は世界とともに埋没する。(あなたは引き上げてくれるだろうか)
さて、断続的に話は続いていく。

「私」というものが
必要によって、そうさせられている
ということまできた。

では、それにもかかわらず
つまり、表面的に「あなた」がいるのに
「私」が遊離感を味わってしまうとしたら何故なのか。

それは「あなた」が類型化されつつあるということだ。
「あなた」がブラックボックスであることに
かわりなくとも、ともかく
一定のレスポンスを返し、出力だけを受け取る
「私」にとってはその内部の機構は問題ではない。
あるひとつの「キャラ」として定式化されるなら
それは安定した文法を持ち、
つまり、「私」と「あなた」の世界は安定化する。

というか、世界と「私」の蜜月を
揺るがす「あなた」の存在はもうない。

当初、「私」と世界とのまどろみから
引き起こし、別の世界という幾分か不快感をともなって
あらわれた「あなた」は
もう一度「私」の(世界の)中に取り込まれる。

「あなた」という必然性が消えたところで
「私」という必然性も消える。

次は「あなた」という必然性がなんなのかについて考えるかな。

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思いつきの関数のさらに思い付き
モノそのものは
もちろん定数だが
形容詞と時間の関数として
とらえ直すことも可能だろう。
つまり、「私」と「対象」と「時間」の関数。

こうして、モノは
意味と実体とに二分される。

それにしても、モノの中に「対象」が含まれている
というのはモノのもう一方の辺に同じモノがあるわけで
これは解など出てこないということにもなるだろう。

そして、モノがその二分されたモノ
という自覚を持つと「私」になるのだとも言えるだろう。
その時「対象」は「私」であるし、「私」だった項は
「あなた」に変わるだろう。

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私である必要
速度というものは存在しない。
それは距離と時間の関数であって
速度がそれ自体として現前しているのではない。

むろん、速度を感じることもできるが
それを表現するためには関数のための
手続きを必要とする。

あるいは形容詞はすべて
なんらかの関数でないかと思う。
何と何のかはともかく
少なくとも対象と私を含む関数ではあるだろう。

「私」も同じく関数ではないかと思う。
それは時間と「あなた」を含む関数になるだろう。
「あなた」がいても過去も未来もなければ
「わたし」は存在できない。
なぜなら、それが「私」である
必然性が理解できない。

過去も未来もあっても
「あなた」がいないなら、
「私」は「私」として自意識を持つ必要がない。
というのも、その時
「私」は世界と直接に交流しているのであって
「私」は「私」のすべきことを
私自身に問いかける必要はなく世界に聞けばよい。

「世界」も「あなた」も
「私」よりそこに先にいる。
けれども、その決定的な違いは
「あなた」は「私」より先に遠くに行ってしまうということだ。
「私」は「世界」とともにあるが
「あなた」とは別の場所にいる。
「あなた」は場所ではないから
当然なのであるけれど。

そこでようやく「私」は
「私」である必要にたたされる。
「私」は否応なく「私」であらなければならない。

功利的にはどうみたって「私」であることは不利であるが
それは倫理的にどうこうとかいう問題ではなく
必要なことなのだ。

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イメージするイメージ
メイさんの「イメージについての考察」について。

派生的なことではあるけど
おもしろいことを見つけたので言及しておく。

「嘗てイメージが意味していたものとは、物事のエッセンシャルな要素であったように思う。例えば、ブランド品を考えてみる。嘗ては、「上品なデザイン」や「丁寧な作り」など、「そのものがそのものであるための中心的要素」がイメージとなっていた」
(中略)
「今日のブランド品のイメージは、「憧れのもの」「持っていることがある種のステータスとなるもの」というような意味をも内包する。」

これを「物事の中心的要素から派生された印象」
こう言ってもいいのだけれど、ことこの「ブランド品」というものに
関して言うならば、このイメージは「他者の欲求」あるいは
「他者のまなざし」である。
そのモノに内在する意味ではなく、
そのモノと「一般的な他者」との関係性にある意味である。

これは確かにメディアがはっきりと関与している。
「流行」をチェックする雑誌などは
掃いて捨てるほどあるが、
そういう雑誌が取り上げているのは
つまるところ「他者のまなざし」であるのだ。

僕は「イメージ」という「イメージ」が
モノ性からは離れていると考えているが
「他者のまなざし」に関するイメージというのは
「モノ」に関するイメージとはとても重要な差異がある。

というのも、このイメージとは
交換にあたっての価値を指してもいるわけだが
同じ「品質」なら等価交換、ということではなく
同じ「他者のまなざし」なら等価交換だという状況になっている。

たとえばそういうことは
見栄がよければ、安くてもいいもの
という発想にもなるだろう。

けれども、それ以上に
「他者のまなざし」の他者とは誰か。
身近なメディアや人から情報を得るしかないのだから
人によって、その基準はずれてくる。

モノに準拠基準がある場合
そのモノを精査すればよかったのだが
もはやそのような手続きは意味をなさない。

かつては「モノの名前はアーケードのように」
人を、出来事をつなげていけただろうが
このような状態ではモノの名前は
せいぜいコミュニティの屋根しか貸さない。

もはやパサージュなどどこかへ行ってしまったのだ。

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ヒューマンコンディション
「コミュニケーションは自由に接続しない」で
考えてたのは結局のところ「自由」以外に
「人間」の条件が何かあるはずだと思ったのである。

世界の改変(革命ではない)につながる
選択ではない形での展開。

僕らは主体的であり続けることはできないし
主体など、事後的に観察されるものでしかない。
そうではなくて、生きるにあたって
引き受けるしかないものがあるということ。

ポーカーのカードは五枚あって
それを一枚どれかを選んで捨てる。
捨てたら、かわりに何かを引き受ける。
捨てた後に何を拾うかはとても重要だが
それは選べない。

ルールは?
変えられるかもしれない。
しかし、何かゲームをしなければいけない。
ゲーム?

展開がそこに待っている。

「人間」は時間の概念を持っている。
いくつかの時間概念のタイプはあるものの
時間概念がまったくないならば
不在を理解することはできない。

というのもないものはないので
言葉を使うことはできない。
あるいは、言葉を現実に働きかける
何かの力として使うことができない。

今、目の前にあるものだけが
現実だと言うのなら、
そいつはリアリストでもなんでもなく
単に、人間として生きることを諦めている。
というのも、何も望めず、
何も思い起こすことができないからだ。

時間概念には僕が特に強調する「展開」だけでなく
周期型のものもある。
また、広がりを持つ「現時」というものもある。

「展開」はもっとも自由に関係が深い。
私の選択が不可塑なものとしてあらわれるからだ。
そこでは確かに私は責任を負う。

けれども、自由-責任というコネクションは
それほど広い部屋を与えてくれはしない。
三面鏡の中に閉じ込められた私がそこにいる。
袋小路である。

周期型は、記憶と関係があり
あるいは歴史的ですらあるもので
アイデンティティと関係が深い。
しかし、ここに自由はないし
近現代を超えた今、これを根拠に生きるのは困難だ。
というのは周期を持ったとしても
複数のラインを持つのが当たり前になり
それが時に共鳴し、不協和音にもなる。
安定した周期型を保とうとしてもそれはうまくいかない。

「現時」というのは充足した状態である。
安定した統一、世界と私との一体感、没入感を基礎にしている。
手段と目的とが分離せず、
そこでしていることがすなわち、目的であるような
そういう体験のことだが、僕が今、問題にしてるのは
世界の改変である。

いや、世界の改変なのか?
「私」という無限地獄を抜け出すこと、
そして、新たに「私」に出会うことだ。
そして、人間が生きるために必要な条件を考えている。

「他者」、「コミュニケーション」も
また、「展開」に近い。
「展開」は必要だ。
しかし「何を」展開するのか?

「私」をか?
それとも「世界」を?
どちらも違うような気がする。

今は時間がないので、これまで。

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僕は僕からすり抜ける
僕は僕以上のなにものかだ。

未来があるからではない。
僕が僕を見ることができるからだ。
僕が僕を語ることができるからだ。

自分に言及した時、
その時形容した言葉以上のなにものかに
僕はすでになっている。

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