雲の湧き上がるように。


<< October 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>


スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています


| - | - | - |
生きた詩について
大阪で朗読のイベントがあって
choriのマネージャーである僕は
彼がでるということでついていった。

マイクはよくなかったが会場が小さかったので
choriははじめからマイクを使わずに。
そういうライブにおける対応はさすがに慣れてる。

そして、つつがなく終わり
少し、照明を落とした店内で
観にきてくれた人としゃべった。

choriの詩はポップな感じがする、と言われて
僕もとてもそう思う。
だけど付け加えて
ポップなだけでなくてポップアートでなければ
意味はないよ、とも言った。

じゃあアートってなに?と聞かれて、僕は
新しい何かを創造すること、詩なら新しいイメージを創造すること
と答えた。

帰り道電車に乗りながら考えていた。
新しい、というだけでいいのだろうか。
これにも補足が必要なのではないか。

新しい何かとは言っても、
常に新しくあるべきなのだと思う。
それは単に装いが新しくなっているだけではなくて
根本的にこの世界になかった、そしてこれからもないものであるべきだ。
その詩があらわれることによって、新しいイメージが
世界を覆い尽くしてそれが見慣れたものになるというようなものではなく。
永遠に新しいものであるべきなのだ。

これはもちろん理念型としてのアートについてではあるけれども
それは、実現不可能であるどころか、そうではなくて
すべて生きているものがそうだということだろう。

たとえば、この駅で電車を待っている50を過ぎた爺さんは
すでに生まれてから老いていて
いわば古びているが、彼自身は常に新しい。
みな、新しく来る電車を待ちわびている。

生きているものは常に新しい。
だから、ここで考えるのは
モノとして、産み落とされたものが生きるというのはどういうことか。
生きることの模倣で、常に書き足されていくのか?
インタラクティブ技術を利用して対話してくれる詩なのか?

それももしかしたら、
そうなのかもしれない。
しかし、その試みはおそらく生命を作ることに限りなく近づき
もはや詩である理由などないだろう。
そんなら新しい詩を作ろうとか言って女を寝床に誘えばいいだけじゃないか?

詩が、人の言葉の生まれた時から作られ
そのいくつかがその時代を越え、言葉を越え
何度も読み返されているという事実、それらは
生命の模倣でなくとも生きたものであったのではないか、
ということからはじめるほうがいいだろう。

もはや、朝になった街並は
生活感を漂わせている。
街はそれ自体生きものではないが生きている。
そこに人がいるから、だろうか。

そこの中に人がいるかどうかは分からない。
もしかしたら独居老人ばかりで
櫛の歯のように欠け落ちた家ばかりかもしれない。

僕の部屋には、一人暮らしだから
当然誰もいない。
しかし、これもおそらく生きている。
僕が使うからだろうか。
そうかもしれない、が
僕が時折潰すように消す煙草の一本一本は生きているだろうか。

僕はあの朗読会のあった時
別のことも話していたかもしれない。
僕には帰る家がないように思えるから家が欲しい、とか。
それはhouseとかでなくてhomeだけど。

そんなこと言ったのは
I君がケンカしたとか言いながらも
彼女と彼だけでしかないような空気で
その朗読会の一角で話し込んでいるのを見たせいかもしれない。

その次の日はデートだったが
そんなことは特に言わなかった。
お互いあまりによく分かっていることのような気もするし。

BALビルを通りすぎるあたりで
彼女連れのF君を見かけた。
あんまり幸せそうだから水を差すのも悪いかと思って声はかけなかったけど
ああいう雰囲気で僕たちも歩いているのだろうかと考えると
少し恥ずかしく、嬉しかった。

みんな、出会うまでは少しも知らなかった人と
手をつないで歩いて、街のあれこれを
見つけ直したり、作り直したりしている。
そして確かにふたりが生きた街並に変えられていく。

街並は自分と誰かとのあいだにある時に
生きられた街並に変わっていく。
それは単に使うとかいうことではなくて
新しい世界のため、変貌しながら姿をあらわす
新しい目的に向かっていく動きの中で変わっていく。

僕の部屋は僕とそこに訪れるであろう人々のために
あるいは、もしかすると、僕と過去の僕と未来の僕とのあいだで
生きられ変わり続ける。

モノはそれ自体生きることがないけれども
僕らとともに生きることはありうるのだ。

詩もおそらく同じだろう。
新しい今をともに生きるような詩こそが
常に古びずに生き残りうるだろう。
そんな詩ってのはどんなのだろう。

簡単に条件をあげるとすれば
読者がその詩に立ち会える空間を持つことであり
それはつまり、読者がどのような
立ち位置であっても踏み込める建造物なのだと思う。
それは帰るべき家であるかもしれず
通り過ぎる街並であるかもしれず
これから向かう彼女の家であるかもしれない。

そして、僕は彼女の部屋の近くまで送って
バスを待って、自分の部屋に帰った。

| 生きる技法としてのアート | comments(2) | trackbacks(0) |
ゆうべ見た夢に、僕が出てきた。
なんか、少し余裕がある。
こういう余裕をネットにすぐ費やすのはよくないと思いつつも使ってしまう。
基本的に浪費傾向が強いのだろう。

家から持ってきてもらったCDには
ライヒを中心としたいくつかのCDはないのだが
それでもいくらかはあるので
久しぶりに聞くものが新鮮でうれしい。

ケン・イシイなんかも
久しぶりに聞くとやっぱりうまい、というか
そのディティールのとげとげしたものが
なめらかな波を作るようでなかなか気持ちいい。

そういえば、
仕事場で洗い物をしているときに、
自然と音のリズムが楽しくて
everything we do is music
だなんて思い出す。

Towa Teiのリミックス版のstupid Freshに入ってた曲だ。
いいこと言うなぁ。
ダンサー・イン・ザ・ダークにもそのままつながっていく。

アートなのかね、人生は、僕の人生は。
どうだろうか。そうだろうか。
そうだといいな。僕に意志があるならそうだろう。
アートとして提出したならそれはもうアートだということと
それがアートだというのはつまるところ
natureではないってこと、そう考えれば
僕はとっても不自然に、ねじくれた根性を持ってるのだから
きっとアートだ。善き生きてますかね、僕は。

誰もそういうことには答えない。
僕の人生のことは誰も知らないからだが
僕が僕でなくなった「ヒト」ならきっと誰かが答えてくれる。

たとえば、こうやって書き付けた文章というのは
どんどん僕からかけ離れて日本のどこかのサーバーに収容され
シグナルを待つ。

僕はと言えば、
応答された文章に応答するのだが
僕自身が提出した文章にも応答している何者かで
しばらくして、恥ずかしがってみる。

なに、アートって(笑
引っ越しセンター?(笑

もはや、名前も忘れたが
どっかの社会学やってる先生が
社会学はリフレクションだって言ってた。

世界が情報化するってことは
リフレクションがインフレするってことだ。
無限映しの鏡がそこらじゅうに張られる、ということだ。
そこで出会うのは、「僕」だ。
僕という「ヒト」だ。

もはやすたれた「自分探し」というのは
誰もしなくなったから言われなくなったのではない。
むろん、いくらかの避難に負けて消えたのではない。
そうではなくて、日常的に向き合うほかなくなり
それが日常のモードになっているからだ。

僕らはそろそろ「あなた」を探さないといけないが
どうだろう、あなたは今晩暇だろうか。
少し余裕があるとこんなことまで書いてしまって
あぁ、恥ずかしい。

| 生きる技法としてのアート | comments(0) | trackbacks(0) |
唇の話の向こう側。
唇を見て思っていたのは
つまり、充実、ということだった。

だから、僕にとって
そこでアートの話をしていたのは
偶然ではなくって
つまり、充実はアートとつながっている。

充実というのは
理想と現実の幸福な一致のことであり
輪郭線がためらいのない形で
かたどられている状態だ。
美と一言でいってよい。

大きければいいというわけではなく
自分自身との調和が充実である。

アートは作為の具現化だから
自分の方法(具現化過程)について意識的でなければならない。

そんなことを話していたのだけれど
それとは別に意識をしていなくても
つまり、ルネッサンス以前も
僕らはそれを芸術としてのアートとして扱う。
そこには美と充実が認められるからで
美は常にアートなのだ。
アートが美とは限らない一方で。

というのも完全な一致は
最終的に自意識を持っている必要すらない。
明らかな事実としてそこに認められてしまうのだ。
本人がいくら否定しようとしても
第三者が肯定できるのはそこに充実が認められればそうできる。

僕は時にフェティッシュな視線で
女の子を見てしまうけれども
それはどうしても、そこに充実があるのだと思うからだ。
充実が一瞬の永遠であるなら
どうして、それを今、誉めたたえずにいられようか。

| 生きる技法としてのアート | - | - |
| 1/1 |