雲の湧き上がるように。


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責任と保護、それぞれの焦点
配慮と自由の話は
保護と責任の話とリンクすると言いました。

つまるところ、
政府および条文の保護と個人の責任ということは
個人対個人の間では配慮と自由という形であらわれるということです。

んで、前に漂流日記で
1)個人が責任を負いつつも政府が保護すべき
2)個人が責任を負わず政府が保護すべき
3)個人が責任を負い、政府は保護する必要はない
4)個人が責任を負わず、政府も保護する必要はない
という四つの類型をあげて
この境界線について考えておこうと言ってました。

で、保護すべきなのは
政府が管轄している個人にとっての外部要因が
個人の自由を侵害している場合になるでしょう。

つまり、利害の調整であり
アクシデントの後の復旧が保護すべき対象になります。
これはおもに結果から導かれるでしょう。
全体の産出額を減少させるような結果を
政府は保護しなければなりません。

責任の有無は意図した結果であるかどうかではなく
問題となっている現象の引き金となった行動が
意識的であるかどうかになります。

二つの軸には結果という定時的なものと
行為と意志という通時的なもののずれがあります。
また、このふたつの軸には
それにともなって焦点も違っていきます。

というのは、保護は個人に向き、
責任は現象に向かうということです。
結果は個人の外にあり、
責任は個人の内側にありますが
それらを具体的にしていく過程では
それぞれを基点にしながら、
反対方向へすれ違っていきます。

責任が作用するのは結局のところ
その現象を系統だてて説明するということであって
現象に意味を与える、その基点として責任があります。

保護はそれをもとに
現象の意味を解析し、帳簿につけ
プラスかマイナスか判断し、
また、自分の管轄であるかそうでないかを判断します。
そして個人に働きかけます。

こういう環流によって責任と保護は
結び付けられるのですが、僕は
これを結果と行為ときちんとわけるべきであると考えています。
つまるところ、責任があれば保護する必要はなく
責任がなければ保護するというのではいけないということです。

というのもこの環流を許すなら
働きかけがほとんど制限されることなく
進行するでしょうから。
そして、また、
責任さえ負えば介入することができない
などということにもなりかねません。

二つのことが同時に言えてしまうのは
責任というものを最終的に断定することができないからですが
そのどちらも問題だと言うのは
個人間での働きかけの制限と
許可証を持った管理者の無限の介入の
両方が同時に可能になってしまうからです。

だから、責任は個人で負いつつも
保護(介入)がありうるという形を考えるべきなのです。
ここで二つのことが同時にありうるなら
その具体的な処置はどのように
相補的な形をとれるでしょうか。

責任を取れ、と言われる時
求められるのは
つまるところ復帰であり、
それを誰が担当するかという点にあります。
しかし、個人が責任を負うべきことであっても
それが全体の利益になるならば
全体の代表者はその責任推遂行を補助すべきなのです。

***

とりあえずここらへんにしよう。
責任主体と全体という話なんだが
ここまでの話は責任主体が全体の内部にいることを前提にしている。
そうでなければ敵意を持った相手の
責任遂行を補助することまで考えることになって
「全体」は自殺するほかなくなることがありうる。

上のやつは基本的な考え方ではあるけど
僕がもっと考えるべきことは
外であり、間であるから、
そのケースを次に考えなくてはいけないだろう。

それと、保護や配慮は
全体に対してする必要はなく、
その非対称性についてもおさえる必要があるだろう。
これは特に内部の問題にあたる。
だって、外部は保護や配慮の担い手にも受け手にもならないから。

この非対称性をもっと先鋭化させると
全体の中での個人の自由の条件というのも
見えてくるのではないかと思う。

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モンスター
今、僕は
フーコーの研究者とフーコーの論文が入ってる
『自己のテクノロジー』と
岩波の1冊でわかる『動物の権利』を読みかけており
それから、中公新書『子どもの価値』を読み始めた。

メモライズが終わる直前には
責任と保護ということについて
その峻別をはかるべしと考えていたわけだが
それについて書いてないのは
これらの本を読みかけのままにしているからだ。

フーコーは精神分析化していく時代を
権力の正当化と強化の流れでとらえているが
そういうものが、また個人の誰かに対する
働きかけで見られるのは、つまり
弱者に対する権利を擁護する立場においても同じである。

権利を立てるには
その対象の「心」を信じる必要があり、
そこには精神分析的なものが生じる。

保護や配慮でしかないものが
彼らの権利のためであるとされるのは
彼ら(動物や子ども)に「心」があるからである。
(あるとみなされるからである、というのが正確か)

しかし、過剰な精神分析は
相手に過剰な「心」を求めているし、
そんなに、何もかも考えながら行動していると僕は思わない。
行動(純粋に形式的な動作)と
行為(主観的に意味付けされた行動)との区別は社会学の中で
かなり基本の概念だが、解釈者によって行為にされているという
側面は否めない。
そこに生じる責任を回避するためには
「正常」から外れることだけであり
コミュニケーションの放棄でしかない。

互いに深読みが激しくなる状況の中で
コミュニケーション断絶のほうが
コストが低く見えてしまうような状況に陥っていないか。
僕が上山さんの引きこもりの考察に
顔を出したりするのはそういう興味もある。

精神分析というものは
基本的に「徴候」の分析である。
形式的にあらわれたものを枠組みを使いながら意味付けていく。

しかし、「徴候」とはなんであるか。
「現象」をある「起源」から派生したものとして
みなすことから始まる。
つまり、「行動」を「心」から派生したものとして
みなすことから始まる。
ごく当然のことに思えるようだが
ここには明確な「意志」を必要としていない。

ある種の予言者は、「徴候」を見て
世界の終末を見る。
それは必然的な結びつきなどないが
予言者にとって「終末のはじまり」がどこかにあり、
その反映が「徴候」としてあらわたのを見て
「終末」の到来を言うのである。
要するに「徴候」が直接的に「終末のはじまり」でなくても
彼は終末のはじまりを断定することができる。
目に見えないところに「終末のはじまり」があるのだから。

精神分析の「徴候」を見るというやり方は
僕には予言者のやり方にしか見えない。
もしかすると、そういう予言者はいつの
時代にも必要とされているのかもしれないが
(意味付けられなかった不吉なものを解釈する人という点で)
今まで、それが大きな運命についてしか
行われなかったのに、
個人の心性に焦点をあわせられているというのは
いったいなんなのだろうか。

天下国家の運命はわからない。
だから、不安になるし、予言者を求める。
それと同じような不安を僕らは
僕ら自身に抱いている。
他者うんぬんとのコミュニケーションの問題よりも
自分自身に不気味なものを抱いているのではないか。

浦沢直樹の『MONSTER』にこんなセリフがある。
「見て!見て!僕の中のモンスターがこんなにおっきくなったよ!」

そして、僕らは
自分自身に対して過剰な配慮をするようになっている。
僕らの権利のために。
そんな権利など、僕は必要とは思えないのだが。

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