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世界について
比較文化論とか、そういう類いの「比較〜」という学問の研究手法がある。
なぜ、比較なのかというと、それの内在的な意味というものは
本来的に内在している主観者にしか正しく理解できないにもかかわらず
それを知りたい、という時に、なんらかの尺度で
もっと身近であるところの何者かと比べながら評価することで
それぞれの意味をたどっていく試みといえる。

そして、身近であった意味体系の中に、潜在的な機能を発見したり
あるいは、ある種の体系に共通する構造を発見することまでできれば、
この研究手法としては、よくできたというところだろう。

で、まぁ、それの話をしたいのではなくて、
「世界」のことなんだ。

「世界」というのは上に挙げた、外部からその内在的な意味を
正しく理解することが難しいもの、要するにひとつの閉じた意味体系としておこう。
これを理解し、評価するのが難しいから、異なる社会にぶちあたることの増えた
近代以降、「比較〜系」の学問領域が増えたわけだけど、
単純に評価することができないのかとふと、考えた時にね、
そんなことないなと、おもったのよ。

「世界」を評価するとは、僕らが感情を持つことと同義じゃないのかと思ったんだ。
だいぶ、飛躍していることは認めるけれど、
何かすとんと納得できてしまう面があったわけだ。

「世界」と僕らはどういう関係にあるだろうか。
「世界」は物質ではなくて、意味体系だ。
これは現実的に言っても、そうあるほかない。
なぜなら、「世界」をイメージできても「世界」をすべて目の当たりにすることはないのだから、この言葉を使っている人はイメージ(それも何らかの秩序だったイメージ)としてしか使うことができない。


秩序だったイメージに反駁する人を想定して、以下書き置きする。
秩序はすべて裏切られるというのは、ひとつの法則で、なんというか、
ほら、マーフィーのなんとやらとかでおもしろおかしく語られる一つのルール、秩序だ。
根本的な無秩序というのを世界に対して仮託することは不可能ではないけれど、
起きていることは起きていることであるということさえ確かなら、
たとえば、「富士山が噴火して噴火しなかった」とかでない限り、
そこに、意味がないわけでもないし、意味があるのであれば、機能と流れがあって
出来事とそれに巻き込まれる何者かという関係性「秩序」があると言っていいと思う。


イメージであるということは、僕らが想像している対象が「世界」だということだ。
僕ら、でなくて、僕でもいいが、僕が想像している世界は僕らが想像している世界だ。
というのは、皆が同じ世界をイメージするというのではなくて、
ただ、色々と皆が世界に対して考えをいただいているであろうという空間に対して
「世界」と名付け、
同時にそれは、僕によって閉ざされている。

僕らはそれでもって生きているけれど、その中で生きてはいない。
意味体系は意味体系だから、お腹は膨れないし、セックスもできない。
ただし、様々な動機付けを与える。

僕は世界の中で君たちを探すことができるが、
君たちと出会うのは世界の外なんだ。
そして、僕によって閉ざされている世界と同様に
君によって閉ざされている世界があることを認める。
それが、僕らの世界の定義だからだ。

世界とは僕らが現実的な接触を繰り返しながら
意味体系を積み上げていく際の年輪としても見ることができるが
ただの痕跡としてあるわけでもなく、それ自体が僕らでもある。
僕らという言葉が有効になる地帯で、世界は僕らを内包する。

君たち、としてならどうだろう。
純粋にあちら側に世界を認めることはできるが、
当然、それをさらに包み込む世界も僕たちは考える。
この時のこちら側の世界はダブルスタンダードのまま、
(あちら側と対等な僕の世界と、あちら側を飲み込む僕の世界と)
現実的な接触を待つだろう。

さて、と。

世界を評価することと感情についてだ。
感情が何かの判断なしに起こることは考えられないから、
対象を「世界」としてとらえるか否かが感情の起点につながるかどうかを
考えるべきだと思う。

疲れたからこの辺にしよう。

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