雲の湧き上がるように。


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物語、公共性、決定、動物化、それぞれの走り書き
いくつか、まとまらないけれども
整理のために書こう。

***

物語はそれ自体、変遷する。
最初にあった見通し(物語)は
より大きな物語を通して変化する。

物語の物語を記述することは
物語に内在する人間にとって
より戦略的な選択を可能にするだろう。

***

物語が変化するなら
その物語が同一のものである保証はどのようにするのか。
ひとつの物語が破棄され、
別の物語が始まることとどう違うのか。

ひとつには、
何についての物語であるかが、
同一性の保証としてあげられるだろう。

しかし、何についての、
という「何」を定義しているのが
物語の構造によるならばどうか。

ある性質として認定されるのが
物語の関係性の中で決まるのならば
物語が変化する時に、その「何」も変化するだろう。
たとえ、現実的に同じものを指していたとしても
すでに配置は変わってしまい、その「何」は異質になってしまう。

ならば、物語は形式によって保証されなければならない。
誰によって、誰に対して語られた物語か。
そして、この大きな枠組みの中でようやく、
「何」についての、という物語の同一性も保証されるだろう。

***

そうであるなら、論争は
物語を直接には構築しない。

語りの形式がそもそも違うからだ。
ただ、互いに相手に向き合っているのなら
(つまり、相手を転々としなければ)
ある安定した形式はえられるかもしれない。

***

公共性は開かれたものとして構想された。
その公開性のために犠牲になったのは
「決定」というファクターである。

議論が安心してできるのは
それが、必ずしも一元的な決定につながらない
という保証があってこそである。

一方で、公共性がなんらかの影響力を持つためには
その犠牲になった「決定」という性質はあまりに大きい。

公開性の議論から、決定への道筋は必然ではなく
物語の転換という飛躍が必要である。

***

インタレスト、というのは
公共性において重要な概念である。
共通の興味であり、利害を中心に
人は議論をすることができる。

その時、直接にターゲットになるのは
議論に参加する人格ではなく、
あくまでもその外部にある利害である。

公共性の議論から決定への道筋を
大きな一つの物語に仕立てあげるのは
「利害についての物語」という同一性である。

しかし、それを語りうる中立者はあらかじめ存在しない。
というのも、それが公共性の大前提だからだ。

公共性から決定へと映る地点、
ここには密かな話者の転換がある。
interestが間にあるものから
誰かの所有物に変わるその時に
有効な決定が下される。

誰かの所有物というのは
つまり、利害を直接に受けない視点に立つ誰かのことである。
議論の当事者は公共性において
決定の権限を奪われている。

***

「動物化」というキーワードはとても興味深い。
しかし、これは物語を排斥する事象ではなく
むしろ、共犯関係にあるだろう。

動物化しつつある、というのは
タコツボ化しつつあることの言い換えであり
より巧妙なイメージを与えただけである。

それを前提にするなら、
外部を導入することを前提にした「物語」という
認識のあり方は重要である。

一方で、動物化というのも
ある「モノ」へのフェティシズムを原動力にしているなら
「モノ」のアーケードの下には交通路が広がっているのだから
公共性が存在しうるとも言える。

(実際、オタクは論争のネタを
たくさん自家生産している)

そこに発生した議論を公共的と呼ぼうとしても
メタ意識がない限り消費されてしまう。
メタ意識は、決定への必要条件であるが
それ以前にその議題を「あいだにあるモノ」として
とらえるための、つまり、公共性のための条件でもある。

***

物語は公共性から
決定への唯一の道筋である。

メタ意識のない物語が
フェティシズムを生み、
公共性への鍵となる。

自覚的な公共性の場はそこに
メタ意識を必要とし、
つまり、自分のいる物語が意識される。
他者に出会ったことで「私自身が」物語に参加し
私自身の配置替えが予想されるということだ。

(ここには「私」を主題とした
物語の誕生がありそうだ)

そこから、さらに決定に至る時には
物語はもう一度転換を必要とする。
おそらく、「私」についての物語を
あらためて他者に語るその時に、完結する決定がそれのひとつだろう。

(もっと権力的でありうる決定もむろんありうるだろう)

***

ちょっとおなかがすいたので休憩。
まとめないまま、次は
「個人」というものについて走り書きます。

|  時間、展開、物語 | comments(0) | trackbacks(0) |
行為の形式的なルールと展開
行為の形式的なルールが引っぱりだされる
というのは、その反対に脈絡と目的に関する無視であり
時間軸の無視である。

ただ、僕自身、
コミュニケーションは形式をもとになすべきだと
言ってるわけで、だから、それは
僕は歓迎すべきなのかもしれない。

ただ、「コミュニケーションを形式へ」という
そういう公式はつまるところ
内容という、判定し得ないところで推量が重ねられ
無限の後退が起こることで、
形式的なコミュニケーションが削減されていくという過程に反発してのことだ。

何か問題を提起していく、
新たなイシューを提出する時に
それを形式的な行為に関して行うとするなら
それはやはりコミュニケーションの削減が行われている。
その問題提起はあらかじめ決まったものであり
「私」の発言である必要がまったくないのである。

形式的な行為の判定基準の論争へと
それが持ち越されるなら、
それは神々の闘争という果てなき論争に移り変わるだろう。
というのも、そこは目的の国だからだ。

問題を提出する時に
「私」こそが発言するならば
目的の国においてでなければあり得ない。

一方で、互いに歴史を展開していきたいと思えば
神々の闘争は神話的な記録にしかならず、
つまり、展開のためにはならない。
ただし、展開をする世界を開くためには
まず、目的の国において、神話的起源が設立され
その永遠の過去を出自とするなかで
「私」は発言をし、発言をしたという形式性において
神話ではない、今を生きる「私」の展望というのがありうるのだ。

そして、問題提起のために
行為の形式的なルールが参照される、というのは
我々の可能性の源泉である「世界」を
ある限界のもとにおいている。
確かにコミュニケーション可能性は高まり
言説の流通効率は高まるが、市場そのものが革新されない場合、
市場はいつかかならず衰退するということもいえるし
あるいは、その(言論の)市場はいまだ成長期にあるといってもいい。

つまり、この場合、政治の市場は
ある世界の中に固定にされつつある。
別の言い方をすれば国家像は定着しつつあり、
その文法が整備されつつある時代にある。
低成長と、少子高齢化の効率的な分配という
方法論の時代にあり、
この時代にあるニ大政党とは
(自由主義と共産主義の)目的論的神々の闘争から
方法論への展開という、その弁証法のためにあるだけで
だから、民主党は目的論的な理念の政治家ではなく
官僚を中心とした集まりにならざるをえない。

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