雲の湧き上がるように。


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真偽と存在
論理は価値判断をしないのかどうか、
という話よりも先に
存在は真偽にかかわるのか、という点から考えたほうがよい気がした。

たとえば、テツという存在は
日本人で無職の男性である。
明日、誕生日を迎える。

そういう存在であるのは確かなのだけれど
「テツ」という存在が実は
アフリカに生まれたとしたら、というように考えることができるのは
なんでだろうか。

そこにある、「テツ」という存在はなんだろうか。
何かを仮定する時、そこに何が共通項になっているのか、
ということを考え出しても、無駄である。
仮定する場合、現実にある「テツ」と
仮定された「テツ(x)」に共通項はあるだろう。
そして、「テツ(y)」との間にもあるだろうが
「テツ(x)」と「テツ(y)」に共通項があることをまったく保証しない。
その場合のテツ性なるものは任意に取り出された
要素でしかないわけだ。

その場合、「テツ」という存在の真偽というのはナンセンスな問いにしかならない。
(いや、という留保もある。が、ちょっと待ってね)

でも、これは仮定の話だから
現実の「テツ」には関係のない話じゃないの?
ってことも言えそうだけれど、そうでもない。
現実の「テツ」というのは果たして
確定したものだろうか。
「テツ」には未来がある。
(よいものかどうか別として、願わくはよいものを)

それはとても現実的なことであるが
果たして未来は仮定としてしか話し得ない。

また、別に現時点での「テツ」を話題にしてもよい。
完全に把握していなければ
その定義は可能な(つまりありえそうな範囲で)要素の
いくつかを取り上げて、命題を作りあげるわけだが
それは仮定された「テツ(z)」でしかないのではないだろうか。
そして、おおよそ完全に把握できるものというのは
特に存在のあり方を把握できるように切り取ったものでしかない。
(それはいったいどのような切り取り方のことだろう。
生物学の猫と、物理学の猫と、実際に僕らが出会う猫はどのように切り取られるのだろう)

結局、存在は真偽によって
確かめられるものというよりも、
その命題を作り上げる前提として仮定されるものだということである。
このことが存在に関する命題を無効にするわけではないが
僕らはそんなに存在に関する命題ばかりを取り扱うわけでもない。
というか、その時の命題は実は存在に関する命題なのではなく
属性と属性に関する命題でしかないということだ。

「ナオミが美しい女で、美しい女は価値がある、以上のことから美樹は価値がある」
とかそんなのは実はナオミについてなんか一言も語っちゃいない。
「美しい女」と「価値」の話しかしていない。
なぜなら「ナオミが美しい女」という命題は
定義ではあるにしても、それが真であることを保証する命題ではないからだ。
そして美樹を知ることは彼女が美しい女だということを知ることではない。

この人がナオミであることを知ることが
ナオミを知ることだ。

さっき、

>「テツ」という存在の真偽というのはナンセンスな問いにしかならない。

なんてことを言った。
留保していたのは定義された「テツ」への問いかけがナンセンスで
あるということであって
現に存在している「テツ」を「テツ」として認識すること
そしてそれを問いかけることは決して無駄ではない。
何故なら、それは僕らを駆動する
もっとも根源的な価値への問いかけだからだ。

現に享受しているものは存在している。
それは真偽以前の問題で、確かに僕らが感覚したなにかだ。
それを名付けていくこと、それはすでに欲望に突き動かされてのことだ。
意識的にか、無意識か、プラスか、マイナスか問わず
名付けようとする行為はすでに価値によって駆動されている。

| 境界の思考(同心円、分節) | comments(0) | trackbacks(0) |
真か偽かということ
ほとんどのものは真偽が論理的に確かめられる
というのは確かなことで、それ自体に疑う余地はない。

真偽は「論理的に」確かめられるが
論理は記号/言葉によってしか記述できない。
イメージで真偽は確定できない。
(それができるとき、すでにそれは一つの記号として立っている)

けれどもことの真偽を確かめることと
現実を認識することにある隔たりはどのようにしても残る。

新書一冊かじりとったラッセルから取り出すと
これは確定記述-不確定記述の問題にかかわっている。
最終的に現実の存在を定義する記号など出てこない。
(出てこないってラッセルは断定しないだろうけど)
固有名も所詮は記述の束でしかない。
直接的なこそあど言葉のような指示語でしか確定記述はありえないが
文節がそれでは確定できないのではないか。

いや、存在に中心性を認めることが出来れば
「これ」と言ったときにある蜜柑の
蜜柑性が、つまり蜜柑の核心さえ確かにあるならば
蜜柑を認めることができる。

蜜柑と聞いたときに皮に包まれた蜜柑なのか
中の食用の果実なのか、オレンジを含んで言っているのか
蜜柑のある部屋を含んで言っているのか、
その時間はいつなのか。
そういったものを切り捨てるときに蜜柑の蜜柑性が役に立つ。
それが最初から蜜柑に内在しているというよりは
蜜柑の蜜柑性はおそらく設定される。

それは論理によってだろうか。
論理は真偽について語る。
しかし、存在は真偽の範疇だろうか。
とある存在が偽であることはあるだろうか。

仮にそれが幻影であって、
その幻影のイメージは偽であるだろうか。
一面では不正確なものだったと言えるが
そのイメージがあらわれたことは真である。

その幻影は役に立たないものであった。
占いは論理で言えばほとんど偽であるとしか言えない。
けれども、それは時に役立つので現代でも
ワイドショーに出てたりして、
「あんた死ぬわよ」とか言ってるわけだ。
(ん、これは存在ではないだろう)


とりあえず、言いたいことをさくっと言っておけば
存在は価値判断の対象であるが、真偽を判別する対象ではない。

ということを言うためには
1.論理は価値判断しないのか
2.存在とは何か。
3.価値判断はどのようにおこなわれるのか

そして、これらが明かされた後には
a.価値のコミュニケーションの位置づけ
b.価値のコミュニケーションの方法
c.間違いの種類
について検討することができるだろう。

| 境界の思考(同心円、分節) | comments(4) | trackbacks(0) |
外部/超越
外部というのは基本的に「間」でしかない。
inter-であって単純に「私」の外ではありえない。

というのも、それが別の世界であるなら、
別の中心性を持つ同心円の領域であるなら
それは「私」とは別の内部であり、
「他我」として措定されるたぐいのものだからだ。

inter-estは公共圏において重要視されるべき概念だが
そこにはある特定の利害が存在し、
客体としての中心がそこに存在する。
それが外部とのコミュニケーションを可能にする。
そこでは中心性の言葉は影響力を失い、
分節的思考が、普遍的な交換を可能にするように働く。
そこでの行為は、中心性に振り分けられず、
まず、分節的世界に蓄積される。

とはいえ、それは客体を中心とした分節的世界であり、
たとえば貨幣を中心として世界が分節されていく。
そして、神であったはずの主体は
その世界の中では客体を中心にひざまずく。

inter-estにもとづいて外部とコミュニケーションするなら
このように、主体性を放棄することが条件になる。

一方で、「死」のようにinter-の向こう側が
完全に虚無という場合もありうる。
ここにコミュニケーションはない。
宇宙が外側にたどりつけないような速度で膨張するように
そこは私たちから逃れていく。
これが、超越である。

超越は世界の完全なる外部であるが、
その完全性ゆえに、世界を作ることもできない。
いかなる尺度も受け付けないので、分節としては働かない。
「生」と「死」の分節とは、いったい何から何を分け隔てたのか。
何も分けていないのである。

ただし、世界にかかわらないわけではなく、
中心性をもとにして広がる同心円的世界の外郭を与える働きを持つ。
可能性の限界である。
起こりうることがすべて起こりうる、世界においての
その可能性の限度を超越が定める。
世界の可能性は中心に据えられた主体性などに託されてはいないのである。

一方で、時間を生きる私たちは
時間の流れの中で超越に直面する。
計測され、分節されうる私たちは同時に
逃れていく現在を生きている。現在は痕跡でしかなく追いつけない、超越である。
モノ自体はこの両義性によって、世界に内属する超越であり、
中心性を維持することができる。

しかし、まだここでは意志などは必要ではないし、
ましてや主体性など必要ではない。
メルロ=ポンティ的な両義性の問題は主体の問題でも
人間の問題でもなく、モノ自体の問題である。
それが主体にかかわるのは私たちもモノ自体であるからだ。

主体の話をするならもう一度時間の次元に降りて、逃れゆく現在から
照準をずらして今ではない時間への意志について考えるべきだろうが、
もう少しだけ、モノ自体が超越であるために必要な認識について考えておこう。

モノ自体はまず、超越として存在している。
それは分類を拒み、分節的世界の意味の源泉としての偶像であるよりも前に
単に存在している。
私たちはそれを所有できない。
なぜなら、それはたどりつけないものであるからで
欲しいと思った魚は、手に入れて
家に持ち帰る頃には鮮度も落ちてまずくなっている。
モノ自体は時間に従順である。

名前の認識は所有を可能にする。
名付けられたものは、私の支配下にあり、
それをコントロールすることができる。
名付けとは分節であり、そこに書き込まれた定義にしたがって
崩れつつあるものは定義に従い補修することができる。
そして、名付けられたものは補修にたいしてもそのものであることを許される。
名付けられたものは変化するが別物にならないのである。

また、名付けられたものは複数のうちの「ひとつ」である。
数えることを可能にする。
空気でさえも容積ではかれるようになる。
そして、このことによって交換(コミュニケーション)に耐えうるようになる。

モノ自体は名付けによって超越から
俗世界に連れ出され、完全なる外部から、内部へと招き入れられる。
それは招いた側からすれば「我が家」への招待である。
(赤ん坊に名前をつけることは、まったくその分かりやすい事例だろう)

しかし、超越は完全に飼いならされない。
魚は腐り、純粋な赤ん坊はぐれてしまったり、
交換には手違いが起こり、
inter-estは不断の衝突の場となる。

そろそろ、「私たち」の話に戻るべきだろう。
inter-の向こう側にいる、「私」と同じ構造を持つ
別の名付け親たちとどのように対話することが可能なのか。

それは引越のあとの話にしよう。
というか、まだ、そこまで思考は追いついてないから(笑

| 境界の思考(同心円、分節) | comments(1) | trackbacks(0) |
同じものの前でしか生きられない。
享子さんの「同じもの」について。
ずっとコメント欄で書いてきたけれど、
まぁ、やっぱり僕は異論というよりは
付け加えるつもりで書いていたので、こちらで書きましょう。

可能的な私と現在の私は連続性によって同一性を確保しているのではなくって
むしろその逆で、「私」は可能な私も含み込んだ同一性を保持しており
その無限の幅の中で、反省をすることが可能になる、ということだったと思います。

ここから分かるのは、同一性は観察によって得るものではない、ということです。
観察によって同一性を確保しようとするならば
確定することのできない可能的な差異が邪魔をします。

でも、「私」は世界の中にありながら
それ自体が世界であるような特異点です。
(つまり、可能的なものを同一性の中に含み込むことができるもの)
(起こりうることはすべて起こりうる)

問題はむしろ「私」以外のものの
同一性をどのように確保するのか、ということにあると思っています。
それが「ひとつのもの」の境界の確定に関する問題です。

この問題を掘り下げる前に
「起こりうることはすべて起こりうる」という命題とは別の
「同じものは連続している」という常識的な命題についても考えておきましょう。

「起こりうることはすべて起こりうる」というのは
何が起こっても同じものは同じものであるということでもあります。
同一性が先にあり、その同一性はそれぞれ可能的なものを含み込んでいるので
それに支えられて、同一性は保持されます。

しかし、認識する側からまわれば
あまりに桁違いな変化が起これば同一のものと
みなしえないこともあります。
たとえば多重人格が「多重」の、別々の人格を持つと認識されるのは
それぞれが別の同一性を持っていると考えられるからです。

ありがちなドラマめいた台詞でいえば
「今のあなたは、昔のあなたじゃない」みたいなものでしょうか。
(そして、この後には自分の対応の変化をそれに基づいて説明する)
これが「同じものは連続する」の裏返しの
「連続しないものは同じものではない」ということです。
だから、ドラマのセリフはあなたと呼ばれたAさんが
自分の変化について断絶ではなく、蓋然的な連続であることを示すことで
相手側も歩みよりがあったり、過去のAさんから拒絶したり
統一的な対応を示すようになります。

このことから分かるのは
「同じものは連続する」という信念は
観察と説明によって維持されるもので、
それをもとに対応を可能にするものだということです。
(科学的な原理とも言えるかも)

つまるところ、この原理は
対応の必要性に応じて「ひとつのもの」を確定することができます。

享子さんのコメントの中で提出した「違うものは連続とみなせるかという」変化の問題も
このふたつの原理を使うことで可能になります。
しかし、この端緒は合理的な説明のできるものではなくて
特異点である「私」がその権利を行使して
「ひとつのもの」の境界を画定しており
論理的には循環しているのです。

コメント欄の用語に戻ると
「性質」によって同一性を保持するのは
「同じものは連続する」という原理にしたがっています。
内容に関する同一性です。

そして、存在に関する性質としてあげた記号の同一性は
「起こりうるものは起こりうる」という原理にしたがっています。

僕が形而上的直感といったのは
記号の同一性を有効にする名指しの行為であり
対応のための恣意的な境界の画定になるでしょう。

享子さんはここで形而上的直感は
文化的社会的なものに吸収されるのではないかと言います。
確かにそういう側面もあるとは思いますが、
第一義的には、対応のためにその境界を選定するわけで
「私」との関係によって「ひとつのもの」が名指されなければなりません。
文化的社会的なものから流用するにせよ。

一方で、文化的社会的なものは
名指しの仕方について一定の規範を与えているように思います。
このことについては一般的な他者としての「私」という
また、別の問題があると思うので今回はここでおしまい。

| 境界の思考(同心円、分節) | comments(3) | trackbacks(0) |
可能的世界について
詩論を書くと
僕にとっては小説と詩の違いを
実は念頭において考えなければならず
いつもそこでは詩は「モノ」であり、
小説は「出来事」であるという中心的なイメージをおいて
書いている。

確かに詩的な表現に満ちた小説も
出来事を下敷きにした詩もあるが
最終的にそれぞれはモノと出来事を目指す。
しかしそれはどちらも世界の構築でもあるのだ。

世界の構築というのは
新しい文法の創出であり
新しい語のつながりの創出とともに
可能的世界を顕在化し、ひとつのリアリティを作り
それとともにまた、その文法に従った可能的世界をひそませた
新しい世界を固定するのである。

詩と小説は世界の構築に至るまでの
道筋の違いではある。
しかし、モノから開ける世界と
出来事から開ける世界が同じなのかは
少し考えてみる必要があるように思う。

書き始めるとここから
1時間以上はかかる気がするので
まずはこれをイントロダクションにして
いったん切り上げよう。

次に書き始めるのは
それぞれの世界の構築のされかたを
もう少し詳細に見ながら、提出されたものの違いをみきわめようと思う。

そして、その次には
小説の出来事としての世界が
変化を中心にしていることを念頭に置き
存在と変化について考える。
ここで気づくことがあれば詩も個別に見ることが必要になるだろう。

最後にこの大カテゴリーの
同心円/文節に還元できるような形で
この可能的世界についてを終えるとしよう。

| 境界の思考(同心円、分節) | comments(0) | trackbacks(0) |
マスコミはどのような権利で発言できるのか。
差別語の話、のたぶん、最終回。

マスコミはPCに気を配ろうと思えば
すべての人間に気を配らなければいけないことになる。
これはごく自然で穏当な考え方なのだけれど
すべての当事者であり、かつ
ポリティカル・コレクトであろうとすることは
すべての当事者から逃れる、ということだ。

おそらくマスコミは
ポリティカル・コレクトであるために
「当事者でない」ことを指弾されるであろう。
あるいは当事者の立場に立っていないと。

いやいや、それはおかしい
当事者の立場に立つからこそ
ポリティカル・コレクトであろうとしたのだと言うと思うし
それはもっともなのだけれど、
ほんとうに当事者の立場に立つというのは
同時に二つ以上の立場には立てないのだし
当事者は常にある問題の周囲に複数化して存在している。
だから、ポリティカル・コレクトであるということは
当事者ではない立場へ上昇して問題を
固定した形で提示するという方法なのである。

で、マスコミはそういった批判を受けたら
いったいどのようにすることができるのだろうか。
「われわれは公正中立な報道をするために
当事者の立場に立たない」と明言することはできない。
というのも、批判を受けた時点で
当事者に引きずり込まれてしまうからだ。

そこで、マスコミは
マスコミ独自の足場というのを求められる。
マスコミという当事者、の足場だ。
この足場を考えることは
基本的に「介入者」の足場であると思う。
当事者でなかったものが
いかにして当事者として改めて発言権を得るのか。
だから、マスコミでない僕も考えたい問題として出てくる。

と、ここまで書いて、
後のことは一寝入りしてからにしよう。

| 境界の思考(同心円、分節) | comments(0) | trackbacks(0) |
ポリティカルコレクト後編
うーんと、やっぱり書きにくいなぁ。
でも、書いていかないとね。

さて、ポリティカル・コレクトのお話。
というか、差別語のお話。

とりあえず、理論的に言葉の環境世界の支配関係を
あぶりだしていくやり方で、言葉を攻撃するのは
明らかに標的を間違っている、というあたりまでは書いたということにして
連想的にそれが差別語であるとされる場合。

それはつまり、日常的には
普通に使用されうるが、
ある差別対象者がいた場合に、それを使うのがためらわれる
というようなそういう言葉になるわけです。

でも、この場合、
まず、相手がその言葉をどのように考えているか
わからないと対応のしようがありません。
むしろ相手の意志を先取りして言葉を選んでいくのは
マナーであるとしても、相手を差別対象者として構成する可能性も
同時に持っています。

これは確か、クィア理論ってのがあって
それはセクシャルマイノリティーであることをむしろ
胸を張って生きていこうというような運動がありまして、
まぁそういうのの裏返しの視点になるわけですね。
特別な配慮を常にする、ということは
特別な配慮を常にすべき特別な虐げられた人という
構造を維持することになりかねないわけですから、
それは、ポリティカル・コレクトであっても
どうなんだろうかと。

というか、言葉に価値が最初からついているとは
とても思えない。
思えないというかそんなものはない。
コンスタンティブな意味は
純粋なリファレンスとして機能して
価値についてはパフォーマティブに文脈、状況に応じて
あとから構成されると考えるべきだ。
そして、だから、すべての言葉は差別語でありうる、と言ってもいい。

すべてが善悪を含んだ言葉になりうる、ということは
どの言葉を発するか、という問題をほとんど無にする。
そこでは僕らは繊細にならねばならないのではなくて
大胆で粘り強くなければならない。
つまり、不適切であれば自分の応答責任に引き戻して
きちんと応答を繰り返す、ということだ。
あるいは、パフォーマティブな表明の仕方について
習熟する必要がある。
(それはごく一般的にはTPOとして)

(ここらへんでマスメディアのことが頭をよぎったのだけど
それはまた次回か、この後にしよう。
まだ最初から差別語として生まれてしまった言葉が残っているし
直接に価値にリファレンスしている言葉もあるのだから
それも考えるべきだ)

で、最初から差別語として生まれてしまった言葉たち
というのも考えるべきで
それは最初から人が口にすることをためらわせる。

とはいえ、僕の回答というのは
ここでもそれほど以前と変わらない。
それを指し示す言葉を言い換えることに何の意味もない。

結局、差別語というのは
ほかのトピックスと違って
当事者と発話者が重ならない。
(つまり差別対象者が一方的に当事者になってしまう)
この不均衡は支配関係を反映しており、支配関係を強化するよう働く。
それを差別語でないようにして使うためには
発話者も当事者として応答責任を負う、という方法しかない。

とりあえず、うまくまとめてはいないが
個人的にはケリがついたんで次に行きたいが
その前に、この差別語という問題の全体像をあらためて見ておきたい。

差別語の問題性というのは
今回扱った「価値」の問題と、
もっと広い、言葉が持つ「カテゴリー化」の問題である。
そして、「価値」の問題はその現場にいけば
パフォーマティブという政治にとても近い関係の問題につながっている。
また、「カテゴリー化」という問題は
コンスタンティブなリファレンスの構築につながっているが
これはむしろ、言葉のおかれた環境世界の構造の反映であって
これを攻撃してもあまり意味はない。
(ただ、価値の問題としては意味がなくても
あるべきカテゴライズというものが何かあるのであれば
それも必要なのかもしれない)

で、僕が出した答えは
発話者も自ら当事者であることを
言明行為内で明らかにし、パフォーマティブな局面を
コントロールする、ということになるわけだ。

マスコミの対応についても考えようかと思ったけど
でも、これはありきたりなものにしかならないような気もするので
気がむいたらにしよう。

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