雲の湧き上がるように。


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配慮と自由
自由は配慮によって成り立つ。
自由意志によってではなくて
(それはちょっと前の話)
ひとさまの配慮あってこそなのです。
だから、感謝しなさいよって言うわけではなくて
配慮の主体は条文に任されてるので
感謝する相手なんかいないわけです。

弱者は配慮を求めます。
不自由ゆえに。
でも、誰に求めればよいのかというと
条文に求めるのですけど、
彼は住所不定ですので
宛先不明でいつも送り返されます。
結局彼らは弱者でありたくないと思えば
配慮するほかないわけです。

条文君は優しいようで
平等のようではありますけど
彼が優しく統治するうちに
僕たちは配慮を身につけ
自ら弱者であることを隠蔽することが
ことの習いになりました。

暴力は配慮とは対極にあります。
すべての働きかけは
まちまちの程度ではありますが
配慮をしないことでしかなしえません。
しかし、その時、
弱者であることを恥ずかし気もなく宣言することにもなります。
「僕は不自由だ!」

しかし、そう叫ぶことでしか
夜は明けないでしょう。

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メモより(「私」を流通させるコミュニケーション)
おとといの夜、疲れてたので
アイデアだけケータイの灯りで書いておいたら
自分の字がまったく読めない。

あほだ。

あぁ、わかった。

配慮を超え
他者に越境するコミュニケーション
だけが「私」を流通させるだろう、ということだ。

要するに「私」の意志が
「あなた」の考えるべき主題として
あらわれるようなコミュニケーション。
それはいつだって、あつかましい。

暴力的だとしても、
それは責任(responsibility)をともなうならば
肯定されるのだ。
ただし責任は当事者としての「あなた」に向けられなければならない。

たとえば、アメリカのイラク侵攻は
選挙民だけでなく、イラク人民にたいしても
当然責任を負う。

しかし、どちらにせよ、
アメリカは厚かましいので
世界に流通している。

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私は生きるために考える。
対象でも方法論でもなく、目的によって
ある言説領域が作られてもいい、
というようなことをイーグルトンが言ってて
なんとなくほっとする。

僕は方法も対象もいい加減だから。

僕は生きるために考えるのでしかないし
考えるために書くほかないだけなのだ。

しかし、僕はどのように生きることを
肯定しようとしているのか、というと、
どのように、というのをすっ飛ばして
生きることそのものを肯定しなければならないという地点にいる。

でも、そこに「人間」が出てくるとややこしい。
ある「同質性」のひとつの
レベルだとして一度扱っていたこともあるが
要するにコミュニケーション可能性において区別されるべきだろう。

しかし、一方でコミュニケーションなるものは
その不可能性によってこそ駆動されている。

この可能-不可能が大雑把ならばもう少し付け加えよう。
可能性はもっとも広義の、そしてそれだけに
純粋な流通という外形において保証された形で
不可能性は相互理解という
等価交換のコミュニケーションを指している。
だから、別にそれ自体は問題ではない。

しかし、「同質性」を保証しているのは
コミュニケーション可能性が互いにあると保証しているのはなんなのか。
これは互いの信頼でしかない。
祈りとしての、願望としての、信頼。

そして、互いの信頼を等価交換のかたちで
得ることができないのだから
(約束を重ねるほどに僕らは不信に満ちあふれる)
「人間」とはそういう飛躍を余儀無くされた存在だ。

そういう飛躍を「自由」の名のもとに肯定してもよい。
しかし、そのリスクを独りで背負うのは
確かにとても無理な注文である。
そのリスクは分散されなければならない。

しかし、「他者」に背負わせることはできない。
それで、今考えているのは「私」と「他者」とのあいだの
時空にそれを預けることは可能かもしれないということだ。

それは市場を創設することである。
マーケット・インだろうがプロダクト・アウトだろうがかまわない。
マーケット・インという手法はしかし、
類型化した顧客を扱うことが限界で
しかも「私」は浮遊するほかない。
(顧客の心理を探ろうとマーケットリサーチを
重ねて、商品という商品が均一化する様を見よ)
キャラというものを重ねていって多角化する「私」は
そのまま成長市場を狙って多角化戦略を推し進めた企業に重なる。
それはブランドイメージを薄め、結果、
企業はコーポレートアイデンティティの確立に忙しい。

確かに流通のためにはひとつ以上の市場を必要とする。
しかし、市場の向こう側にいる顧客の顔だけを見ても駄目である。
「私」が何ものであるかがなければ
市場はすぐに飽和し、均一化し、
流通のための位置エネルギーは消耗してしまう。

「私」が人間として生きるということは
「私」を基点として流通をしなければならない。

問題なのは「私」を流通させるのか
「私」が流通させるのかということかもしれない。
「自由」というのは後者の営みであろう。
「私」が意志を持って話した言葉が
「他者」に届けられ、それに対するリアクションの中で感情が発生する。
(企業が意図を持って作った製品が
顧客に届けられ、購買され、互いに価値が発生する)

「自由」という営みの中で
マーケット・インの(相手にあわせるという)発想がなければ
目の前に届けられても応答されることはないだろう。

しかし、「相手の気持ちを考えなさい」
というあの無責任なフレーズはむしろ
コミュニケーションの不可能性を思い出させる。

「私」を流通させる、というのは
少し前から考えていたことだが
このことは「自由」から離れることに役立たないだろうか。
書いている僕でもピンぼけなので
読んでる人はもっと大変だと思うが
少しつき合って欲しい。

言葉や商品は生産されるが「私」は生産されない。
「私」は「あなた」と同じように
すでにあったからだ。
「私」が流通するというのは
まさしく流通過程でしかない。

解読者だけが存在する。
「私」は投げ出されていて
すでに生きてしまっている。
すでに生きてしまっているという
それだけを元手に流通を開始するのだ。

そこでの「私」はまったく
主体という形をとれない。

ただし、それは単に受け身というだけではない。
コミュニケーションの空間が自律的で
発話主体はあくまでその外部というならば
「私」がそのまま流通するということは
その自律的な流通空間の中に侵入するということだ。

コミュニケーションの外部にいる主体が
裸の王様のような悲しみを背負うならば
コミュニケーション内部に潜り込んだ「私」は
再生産されるコミュニケーション空間の中で
喜びを味わうことができるだろう。

ただ、具体的に「「私」を流通させる」
ということはどういうことなのか。
キャラというのも流通形態のひとつだろう。
しかし、これは明らかに欠陥を抱えている。
というのも再生産のされる余地の少ない安定した形だからだ。
投げ出して流通するのならば
そして、再生産されることこそ必要ならば
キャラが安定していることは
予定調和的なエンディングを望まない限り
まったくもって不毛である。

コミュニケーションが再生産されるというのは
コミュニケーションが次のコミュニケーションを
引っ張ってくるという点にある。
その中で、新たなコミュニケーションが
過去のコミュニケーションの意味を変容させ
全体のコミュニケーションが刷新されていく。

「私」が言葉を流通させている時に
同時に「私」を流通させていると単純に考えてはいけないだろうか。
確かに「私」が何かを流通させない限り
「私」を流通させることはできないだろう。
しかし、それが「私」がコミュニケーションすれば
「私」をコミュニケーションさせることができる
というのはあまりに短絡すぎる。

いかなる種類のコミュニケーションが
「私」を流通させることになるのか。
そういう点について考える必要があるだろう。

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均一な可能性、異質な顕在的性質
レム・コールハースの
『錯乱のニューヨーク』(筑摩書房)より。

「マンハッタンのブロックは、不文律としてのグリッド哲学においてはすべて等しい大きさで、またとりわけ等しい価値を持つので、全体のうちでたったひとつのブロックの変化であっても、潜在的可能性としては残りすべてのブロックに影響を及ぼす。理論的には各ブロックは魅惑の人口施設を閉じ込める自足的囲い地に転ずることができる。
 ところが、こうした可能性にはまた、根本的な孤立という要素も含まれている。すなわち、都市はもはや多少とも均質なテクスチャー、つまり相補的な都市的断片の寄せ集め(ルビ:モザイク)ではなくなり、各ブロックは基本的に自らを頼りとして、島のように孤立して存在することになる。
 マンハッタンはブロックという陸の群島になるのである。」

ブロックに並び立つ摩天楼を個人として読むなら
実に僕たちの状況そのままに見える。

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可処分な生を持て余す。
必要がないことは
してはいけないことではないし
すべきでないことでもない。

単に必要でないだけだ。
今、必要でないことは
そして、明日必要かもしれない。
いつまでも必要でないかもしれない。

別にしてはならないことでなければ
してればいい。

***

たとえば生きる
ということについてこんな風に言ったとしても
たいした力はないかもしれないが
まぁ、生きていてはいけない
などということはないだろう。

しかし、死ぬか生きるかで
迷う人、というのは
生きることに身に余る罪悪を感じている場合がある。

そういう人にたいして
生きることは必要でなくても
生きてていいんだよ、と言ったところで
生きることは必要でないばかりか
してはいけないことなんだと
言われてしまったらどうすればいいんだろう。

というか、禁止は一体
どこからやってくるのか。
「神様はなんにも禁止なんかしてない」
って嘘だろ。
いや、自然状態で禁止されてるものは
ないんだけれど、
禁止ってのは「私」でも「あなた」でもない
誰かがすることだ。
つまり、普遍的な他者。
(いまさらG.H.ミードの「一般的な他者」を思い出した。
社会学専攻なのに。マーガレットではないので御注意)

普遍的な他者というのは
結局、私の意味世界であり、
唯一ではないにしても最大のリアリティだ。

生きることを否定しないようにするためには
この私の意味世界を
改変しなければならず、
それは同時に、「私」自身の
再分節化をうながす。

しかし、それはどのような
形へと改変されるべきなのか。
肯定という肯定がなぎたおされたあとに
何か信頼にたる、肯定があらわれる
というのか。

世界が「私」を飲み込んでしまった
あとに「私」はどうするか。

ひとつには逃亡で
それは中心からの脱出であり
主体の放棄だ。
「普通」という仮想的国を
作り上げている少年少女たちは
たいてい、この戦術をとっている。

時間稼ぎには有効ではあるが
しかし、「普通」からは
のがれられないものだ。
「私」が「私」をほんとうに
捨て切ることはできない。
「私」が「私」の脈絡を
断ち切れないなら、
他者の呼びかけによって
「私」は「私」自身の
普通と向き合わされる。
よって、どこかでは
「私」を肯定しなければならない。

けれども、もはや
「私」が無根拠に「私」を
信用できないとした場合
結局逃げ切れなくなる。
では、根拠を探すのか?
それは方法として有効だろうが
それができるなら、そもそも
生きることに苦しみなどしない。
そして、理由を明確にしたときこそ
本当の結末もやってきてしまうのだ。

生きることに結末などない。
あるいは結末を見据えて
生きることなど、(少なくとも)
今の僕には笑わせるな、と言いたい。
覚悟を決めて穏やかにする
というのなら、さっさと死ね。

違う、結末を知らないから
生きるのだし、
そして、僕の結末など
僕の興味の範囲ではないのだ。

だいぶ取り乱してしまったようだ。

とはいえなんにしろ、
じっさいのところ、結末を
はっきりさせるのでは
生きることは死ぬためにしかない。
死ぬために生きるのではないし
生きるために死ぬのではない。

死は私のためには訪れない。
死は生のためには訪れない。
死と生は無関係だ。

私の死は私のものではない。
しかし、私の生だけは私のものだ。
あぁ、そうか、
僕は貧乏性だから生にしがみつくのか。
しぶといわけだ。

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生きることと、生きていること
「コミュニケーションは自由に接続しない」の補足。

ルーマンの定義によれば
コミュニケーションは行為を含みます。
コミュニケーション的な行為などはなく
すべての行為はコミュニケーションで、
コミュニケーションのすべては行為をはみ出る、ということです。

それならば、
私が生きている、ということは
常にコミュニケーションであり、
世界をさまようことになるでしょう。

受け手がいれば、世界の組み換えであり、
いなければ偶然の世界を漂うか
あるいは、普遍的な形式を志向すれば、自由の地平が開け
生きる、ということが明確な問題としてあらわれます。

「生きている」より「生きる」を願うのは
自由への執着のある人の考えでしょう。
僕も自由への執着はありますが
それよりも「生きている」ことを肯定したいと考えています。
「生きるために死ぬ」とは決して考えたくないのです。

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私は法にもぐりこむ
形式的な行為のルールを問題にすることから
前回は展開の限界について話が進んだけれど
何か違う話をしようとしてた気もする。

というのは、そのルールから
問題提起を行う存在は「私」ではなく
「ルール」であり、「私」は「ルール」の代理人でしかない
という点についてだ。
つまり、そのコミュニケーションの空間に「私」はいない。

「私」がいない、というのは
前回も言ったような目的論的なものと関連している。
目的論は意志に関するものなのだから当然であろう。

代理人であることに意味があるとするなら
そのコミュニケーションのさらに外枠に「私」は
ひっそり隠れているとも言えるが。

しかし、隠れているにせよ、完全に不在にせよ
「私」は当のコミュニケーションの当事者ではない。
当事者は真理であり、正義である。

形式的な行為のルールは断罪し、切断するように働く。
目的論は永遠の闘争であり、和解の不可能性が強調されかねないが
「私」が遠景に遠のいている限り
「私」には断罪が始まるのをもはやとめられない。

代理人である「私」はギロチンが滑り出したのを見て
恐ろしいことだとは思うものの、
「私」のせいではないと思う。

確かに「私」のせいではない。
しかし、責任のないことにしてしまったからこそ
どうしようもない、つまらない結末にも進みうる。

すべてに無理に責任を負う必要はまったくないが
ルールの根底へともぐりこむことで
かろうじて救われるものもあるはずである。
ひとつにはまぎれもなく私自身が救われるのでもあるし。

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