雲の湧き上がるように。


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存在する炎は消える。暗がりに見える残像は目を閉じても。
ろうそくに火がついています。

横から手を近づけても
熱くはありません。
上から近づけようとすると
離れていても熱を感じます。

火は距離よりもベクトルが問題になるのです。

さらに、傾けても火は
地面にたいしてほぼ垂直に動きます。
空気の対流に従って火は上にのびるのです。
それは直接に重力の原理に反するのではなくて
対流の原理によって上にのびるのです。

二つの原理がある時、それはたいていねじれています。
正反対の原理であるならば、たいていそれらは同じ原理です。

ねじれた原理は互いに直接影響を与えることはできません。
でも、息を吹きかければ、揺らぎます。
これが存在するということで、
存在するということはほかの存在するものによって影響を受けるということです。
もう少し詳しく言うと、接触する可能性があるということ、
互いの境界が触れるかまじわるかする可能性があるということです。

***
 平行するもうひとつの話


見えないということと
理解できないということは違います。
見えなくても理解できるし
理解できなくても見えます。

見えないことと
何もないことも違います。
見えなくても何かある時があります。
けれどもこの場合、何もない時には見えないのでしょう。
一方で、見えたものはおそらく「ある」ので
「ある」ことは見えても見えなくてもまったく関係ない、
そして「見えない」ことはあるかないかに関係ない、ということです。
互いに関係するのは「ない」ことと「見える」ことです。

「見えれば」あるし
「なければ」見えない。

ねじれ、見えますか。
ということは、ねじれがあるんです。

あるといっても見えることの証拠にはならず、
見えないからといってないことの証拠にはならない。

ある、と、ない、の話をもう少しすると
ない、というのは単なる空虚であるよりも
ある、の抜け殻である、ということです。

それまであったタバコ屋が取り壊されて
空き地になったとしても、ない、と強く思う人は
タバコ屋を知る人でしかありません。
ぼんやり「ない」と思う人はつまるところ
街並に急に出来た穴を見て、街並が「ない」と思うのであり、
それすら感じない場合は空き地が「ある」のです。

この時、見えないことは非常に弱いです。
というより、何も見えないということは、目が開いている限りありえず、
つまるところ、われわれはすべて「見える」という地平のうえで
ある、と、ない、を期待に基づいて区分けしています。

ただ、何も見えないのがありえないなら
見えないというのは何を指すのかと言えば
はなから「ない」に接続した用法であるといえるでしょう。
「不在」の感想、あるいは主観的表現として「見えない」があるのであって
外界からの刺激によって「見えない」と言うのではないのです。

別の言い方をすれば「不在」は究極的に確かめられていないのです。
そして、「不在」は消えることすら許されず、
すべての存在が消える日まで亡霊のようにさまようことになります。

***

そして、ホワイトバンドの話をします。

あれはもちろん、ファッションとしてすでにずいぶん流通しています。
主張が可視化され、存在として流通しているのです。
単に文字によって主張が存在するよりも
「見える」ようになることでとても強く生き延びる可能性を持っています。

同じようなものとしては
「赤い羽根」なんかがあるといってもいいかもしれません。
でも、ホワイトバンドのほうがよく「見え」ます。

赤い羽根の募金の回収額は赤い羽根が22億ほど、(H16年度)
ホワイトバンドは3ヶ月で200万本突破なので
年間で800万本いくなら24億になります。
(改めて計算するとすごいなぁ)

この強さはやっぱり、つけやすくて
かつ、シンボルとしてわかりやすい、という可視性の強さでしょう。

たぶん、なんでもファッションになってしまうと
それらが形骸化したり、忘却されたりすることを恐れる人がいます。
その心配は一部はあたりで、でもおおむね間違っていると言っていいはずです。

つまり、一度「見える」ようになって存在を主張しはじめた思想は
それがまた、見えなくなっても不在を証し立てることにはなりません。
可視化された思想はいつでも亡霊のように立ち上がる足場を得たわけです。
(ネガティブな用語になってしまうけど、僕は用語にたいして平等なので)

また、形骸化するというのはたいした問題ではありません。
ある意味で形骸化するのはどんな形態であっても
運動が組織化されるなかでどこかしら形骸化につながるものがあるのです。
(組織が組織の為に動くようになるので)
そういう意味でなくとも、ホワイトバンドのポイントは可視化ですから
それが有効に「機能する」というのは、有効に貧困国を救うことではなく、
貧困と関連するホワイトバンドが「見える」ことです。
それによって貧困問題が人の会話にのぼることが最大の機能であって
ホワイトバンド買ってその足で売春ツアーに行こうがなんだろうが
ホワイトバンドは有効に機能しています。

実際にこんなことする人はシンボルを理解できないのでしょうが、
その場合であっても、有形無形のプレッシャーがかかるようになるでしょうし。
(なんか浮気防止の指輪みたいだ)
だから、どれほど形骸化しても、ホワイトバンドの機能はなくならないのです。
存在し続けるかぎり。
別の言い方をすれば、組織は組織として自律的に再生産を行ないますが
「ホワイトバンド」という概念も自律的に再生産されるようになるのです。

概念が可視化されていなければ再生産された概念が
複雑な分節を繰り返し曖昧になると生き残る力を失います。
けれども、この場合、概念が可視化されているので、オリジナルの概念から
どれだけずれてもこの概念は生き続けます。

このズレの可能性はそのままリスクではあります。
けれども、存在することはそのまま力になります。
どのように動くかは、最終的なところは分かりません。
ただし、今ある流れがよくないと思うなら、やはり力が必要なのです。

***

僕は静観するというか、
どれだけホワイトバンドしないことに圧力がかかるか試してみたいのでしません。
でも、この手の表象はほんとにコントロールできるんかなぁ。
まぁ、今のところうまくやってるけど。

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詩論〜自立した詩について
これはmixiという会員制ウェブコミュニティの
「詩は表現ではない」にて書いた記事を転載しています。
(一部修正あり)

詩だけでなく、言葉について考えたものにもなっていると思う。
あと、オートポイエーシスの話と
すごく近いのだけれど、それは興味ある人がそういう目で読んでくれればいい。

***

さて、ボールが来ましたので
そろそろ、「自立した詩」について考えます。

詩が作者の手を離れていても
それでも鑑賞に堪えうるかどうか、
というのはそうでしょう。

僕らが普段おしゃべりする時の
言葉達は、どうしたって向かい合う人と
自分自身の互いの人格に多くを負っています。
その時、言葉は単純な記号ではなく、自立していないのです。

言葉が単純な記号でないものとして
簡単にあげられるのはたとえば
恋人同士で「馬鹿だなぁ」って言ってやるのは
とても愛情にあふれた言葉であるかもしれません。

で、横で聞いてた僕が「いい言葉だ」と思って
「馬鹿だなぁ」と詩のつもりで一言書いたとします。
むろん、発表する場所が人格的なものを持っていて
「ここに書いてある言葉はすべて詩である」
という前提が共有されるならそれは詩かもしれません。

(これは他の諸芸術も悩まされて、鬱になった人がたくさんいたので
「美術館なんか飛び出そうぜ」ってのが流行りましたね)
(あと、便器を美術品として提出したデュシャンは
美術館のその力を逆用したアイデアマンとして著名です)

でも、トイレの落書きにそれが書いてあったら「なにこれ」と思って、
「オマエモナー」と横に書くのが関の山です。
(これだけできたら上出来かも)

だから、自立した詩、言葉とは
まず第一に人格や、場の持つメッセージを超えて
言葉が言葉自身のつながりによって
自己自身を創造する働きでなくてはなりません。

では、それは外部環境から隔てられた構築物なのか、
というと、それは対象が言葉である以上
無理な注文です。
言葉はいつだって言葉の外側を指し示しています。
この機能を失えば何もできません。
だから、確かに内部の言葉を内部の言葉によって
触発しながら、変形させ、新たな展望を作り上げるにしても
それは決して「箱庭」にはならないのです。
(あるいはそうしようとするなら自分の欠陥を承知したうえで、なので
僕の敬愛すべき椎名林檎のようにどこかニヒルなものになるんでしょうか)

少し、元に戻りましょう。
先に進むには今一度助走が必要な気がします。

僕は前に書き込まれた方の
>創造した結果しか与えていない
詩がつまらなく、読み手を触発させる詩こそが
よい詩である、ということには同感です。

この「読み手を触発させる」というのが
箱庭でない言葉のあり方にヒントを与えているのは確かです。
でも、それは「メッセージ」ではないでしょう。

別にメッセージの言葉がよくないわけじゃないのですが
メッセージは人格が強く付着しているために
そこをひっくり返したらメッセージが転倒したり
パロディにされたり、言葉そのものの力としては
弱いものになりそうです。
(なんかポエムってのはこの辺じゃないかな)

(また、一歩戻ろう。
進めるんかな。)

当たり前で簡単なこと、
僕が人に何かを伝えるとき、
それがちゃんと伝えられたなら
その言葉が詩なのではなくて
僕が詩なのだ。と考えてみよう。
僕の「詩」性があなたに
伝えたがっているものを伝えたのだ。

そして、僕が詩を書こうとする時、
僕は、感光紙であり、マイクであり、
文字のひとつひとつであり、そうして
詩が、存在になる。そう考えてみる。

僕があなたに伝えたかったものは、
なかった。
僕はあなたに気持ちを変えてもらいたかった。
嬉しくなってもらったり、悲しくなってもらったり
楽しくなってもらったり、怒りたくなってもらったり。
そうだった。

僕はたとえば
「好きだ」ということを言いたかったんじゃなくて
あなたを喜ばせたかった。

だから、僕は
「好きだ」という言葉を言う必要はなかった。

詩を書くとき、
それは伝えようとするものを伝えるのではなかった。
伝えようとするものはなかった。
それは詩がからっぽだと言っているのではなくて
詩を見せたかったんじゃなくて、
詩を見た人の表情が変わるのを見たかったはずだということで
詩ができあがったものでない、単なる創造の結果ではない
というのはそういうことだ。

でも、なんで「表情が変わるのを見たかったはず」
だなんて断言できるんだ?
それが自立した詩なら、
それが僕を記号におとしめて、生まれ直した
ひとつの存在なら、記号である僕は
そうやって詩を読んでくれた人を通して
やっと息を吹き返すからだ。

僕が人格を持って、言葉を話すとき、
僕の存在があなたを喜ばせて、はじめて
言葉が生きているように。

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うわさの言語論的転回
転回転回って、なぁ、
回ればいいってもんではないんですが
うふふ、えへへ、楽しそうなお題ですな。

ま、享子さんが整理してるんで
整理してるぶんは特に言う必要はないと思うのだけれど。
何を書くかって考えたらば、
とりあえず僕の立場として、あるいは
僕の視点について書いたらよいのだろ。うん。

享子さんの言う通り、
言葉は後追いだ。
だから、言えなくても
存在してるものは存在してる。

でも、それより前に
言葉は僕のものではない。
詩的言語は言語だけど
完全に私的な言語は言語ではない。

そういうことが大切。

だから、「云えないなら無いと同じ」
というないとさんにも一理ある。
あ、どういうことかっていうとさ、
私とあなた、そしてまだ見ぬあなたとの
あいだに共通の焦点を作ることができるかどうかってことで
それはたとえば共同の可能性であるだろうし、
共闘の可能性であるだろうし、決闘の可能性であるだろう。

存在は、ただただ、存在している。
だけれど、言葉にされないままでは意味が無い。
その存在に。

意味がない、というのは
別に悪いことでもなんでもないのだけれど
(だって意味がないんだから、悪いって意味もないよね)
意味っていうのが、様々な地平を開く選択肢を保持しているのは確かで
それをたくさん持ってるといざという時に、
色んな可能性の地平を私とあなたのあいだに開ける。

存在は、ただただ、存在しているから
何度でも言い換えられる。
もちろんあまり野放図だと意味を失うから
(意味はある制約(秩序)の上でようやく成り立つ)
ひとつの存在にたいしてはある程度の限界はあるけれど
存在をいくつかに分節していったり組み合わせたり
新たな存在に名付けをしたりしていくことで
その限界を押し広げることもできる。

あー、そうね、話がちょっとまとまんないね。
いつも通り(苦笑)
まーでも僕がここでいいたかったのは
このふたつ。

1)存在は言葉に先んじている。
2)言葉にならない存在は無いのではなくて、意味がないだけ。

そうだ、そうだ、「動的」にというのは
たぶん、存在とはみなしてないのよね、僕は。
それも言っとかないと。

動的にあらわれるのは観察の結果
名付けられる関数の一種で、
言葉によってのみ立ちあらわれる何かなんだってこと。

もちろん、存在じゃないから無意味だってことはなくて
そうではなくて、これはもう意味の塊なんですけど
だから、僕は「美しさ」だけでなくって感情は存在しないって
大見得きってもいいと思ってるわけ。

こういう存在じゃない意味の塊に関しては
3)言葉にならない意味は無意味であるどころか、無である。
と言ってもよさそうだな。

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コミュニケーションは自由に接続しない。
メイさんにキリバン記念で
MDを送ったら、そのお返しで
MDを送ってもらった。

僕をイメージして選曲してくれたのだが
確かに僕の好みにもつながっていてよくかける。

でも、それ以上に、そのMDを聴くと
メイさんのイメージを感じる。
たぶん、僕がメイさんに送ったMDも
メイさんをイメージしたものの
メイさんは僕をイメージして聴いているのだろう。

コミュニケーションは往々にして
その人にかけた言葉は
自分に跳ね返ってくるだろう。

けれども、それはモノローグだと言いたいのではない。
他者と話しているつもりでも
あなたは実のところ自同性の呪縛から逃れられない云々、などと言うのではない。

誰かと誰かとの間に
はじめて言葉がある時、
その言葉は「私」のものでも「あなた」のものでもない。
「私」と「あなた」のあいだにある
時空そのものが言葉になっている。
そして、そこに映し出されるのは
「私」と「あなた」の接点であり
輪郭である。

重要なのは「私」の輪郭でもなく
「あなた」の輪郭でもない、ということだ。
「私」は言葉を発する度に
「私」を新たに彫刻する。
新たに、というのは「あなた」が
「私」でないからこそである。

「私」が多面体である、というのは
「私」が「私」でないものに囲まれているからこそである。

「私」の中心には何もない。
(世界の中心にだって何もない
だから、愛を叫んだって誰もかまやしない)
それにもかかわらず、輪郭があるので
中心を想定することはできる。

しかし、中心を特定しようとするなら
輪郭を固定するほかない。
その時にモノローグがあるわけだが
その試みは挫折を運命付けられている。
というのもモノローグを重ねるほどに
輪郭という輪郭は薄れていくからだ。

そこで、中心を安定させようという試みは
安定的な外部という一見矛盾した概念を必要とする。
わかりやすく例をあげれば神であり、崇拝の対象である。
(大澤真幸なら第三者の審級というだろう)
特定の他者から普遍の他者への移行が
ここで起こる。

私の言葉は世界へと拡散していく。
世界について言及するほど
「私」は安定する。
「私」は流通するのではなく
「私」は所有される。
世界によって、神によって、普遍的な他者によって。

聞き手を限定しない語り、
というのはウェブ上の言葉の大半がそうである。
そうすることによって
「私」は「私」の所有権を得る。

「私」と「あなた」との間に
生まれる空間において
「私」はむしろ所有権を放棄し
「私」を流通させる。

流通は等価交換ではない。
(等価なら、何故、
それが動くというのだ、
ものが動く時にはなんらかの不均衡が常にある)
「私」と「あなた」にある落差が
メディアという経路を通じて明確化され
(あるいはねつ造され)
「私」と「あなた」とのあいだの空間に
(それも一つの世界だ。
互いの関係について言及することは
まわりくどいことだが、
恋愛における「告白」というシーンはまさに「二人の関係」という世界に「私たち」を所有させる)
価値の剰余を発生させる。
(経済が発展する、というのは
まさに流通の成果であり、流通すればするほど
全体の価値は肥大化する)

その価値というのは
理由と言い換えてもいい。
つまり、モノ自体(それは「私」を含む)
にはもともと意味などないし理由もない。
それが流通することによって
理由を与えられる。

「あなた」に言葉を差し向けることは
互いに互いの理由を増やすことになる。
それは未来を互いに築きあげることである。
(理由はすでに常に未来に向かっている)

普遍的な他者に対して、世界に対して
言葉を向ける時、それは
無限に複雑化していく理由を一定の範囲内に
おさえる効果がある。
それは「私」に決断をせまる。
諦めという形かもしれないが
少なくとも、現状認識というのは
こういう範疇にある。
こちらの根っこは基本的に
過去にあるが、未来に対する態度は
より積極的であるともいえる。

世界が確定していくとき
「私」の目の前には地平が開ける。
しかし、その地平が
どのような選択肢を用意しているかは
まったくその時の状況による。

普遍的な他者によって所有された
「私」はもはや、選択肢を選択することはできない。
選択を行うことが自由の発現であり
「私」の生の実感であるとしても
そのためには選択肢が現れていなければならず
その選択肢の並びがまったく悪いものしかない場合もある。

世界をもう一度、不安定にしたところで
それは、うまくいくかどうか分からない。
まったく分からないし、
その作業は生きる実感からは離れた
別の過程である。
何しろ「私」を流通させるのだから。

しかし、それは単純に不自由なのではない。
自由-不自由という直線の上には
まったくあらわれてこない領域の出来事である。
世界を耕す、ということは
要するに「明日」生きるために
必要なことであって、
もはや、「私」の選択する余地のないほど
すべきことである。

そして、このテキストは
普遍的な形式についての考察であって
なにがしか決断を僕に迫っている
ということも明らかだろう。

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徴候としての言葉
関連性と因果関係は厄介で
関連をすぐに因果に結び付けて
解釈するのはとてもよくない。

新聞の読者投稿欄に
「若者言葉は人間関係を希薄化する」とか
訳のわからんことが書いてあったんだけど
これは「若者言葉」が原因で
「人間関係の希薄化」が結果になっているわけだ。

(無論ここで
「若者言葉」とは何を指すのか曖昧であるとか
「人間関係の希薄化」とは何で、
それは「若者」に実際に起こっているのか
という定義と事実確認を省略してはいけないが
ここではそれは本題ではない)

で、「若者言葉」を使う人の
人間関係が希薄であるという事実があったとして
それは当然、いきなり因果には結びつかない。

人間関係が希薄であるがゆえに
「若者言葉」が案出されている可能性もあるし
第三の要因があって、それが
人間関係を希薄化し、「若者言葉」を生み出している
ことも考えなければならない。

(この第三の要因を考えた時に
「若者言葉」は「人間関係の希薄化」の徴候となる)

以上の三パターンは
関連から因果へと飛躍する時にチェックすべき
最低限のことである。

(また、定義から
どちらかが他方を包含している可能性もある)

因果関係の厄介なところは
それが時間をはらんでいるところであるが
それをさらに厳密に考えると
すでにして、同時に起こっている場合は
因果でもなく、包含でもなく、
互いに互いの条件を作り出している可能性がある。

つまり、互いに互いの未来をあてに
するからこそ、そのような循環が成り立つ。

僕は言葉は最初から徴候なのだと考えた方がしっくりくる。
実際、言葉はここにないもののためにあるのだから
徴候であるほかないだろう。
言葉をもっとも雄弁に語るのは予言者だった。
そして政治家になり、種々のタレントになり
言葉は何かのサインではあっても、
それは解釈を経て現実と交換されるのを待っている。

だからこそ、言葉をこれ以上徴候としてとらえる必要はない。
言葉をごく普通に交換することは、
それ自体、徴候としてとらえるやり方でしかありえないことだからだ。

言葉を意識的に徴候としてとらえる時
過剰に徴候としてみなされるのは
言葉を発している人間である。
その時、言葉を発する人間は「キャラ」という
うすっぺらな住所不定の漂う紙切れに変わってしまう。

言葉の内容ではなく
しょうもないことを話しているという
事実性にかかっている「素」が希少価値を高めているのも
言葉を意識的に徴候としてみなすような傾向があるからだ。

「若者言葉」と「人間関係の希薄化」を結ぶ
第三の要因とは要するに
この「言葉を過剰に徴候としてとらえること」ではないだろうか。

それにしても、こんなことは
言葉が存在した瞬間からある問題でもある。
もっと具体的な社会状況を説明項に持ってきた方が
今の問題としてあらわれている状況をより説明できるだろう。

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時間
未来なんてどこかにあるわけでもない。
だから、独りならば捏造するのだ。
誰かいれば約束するのだ。

そして一度ねつ造されれば
それは現在を飲み込む。

想像力は現在から逃れるためにある。

***

コミュニケーションは約束でできている。
言葉は約束でできているし
約束は言葉で出来ている。

コミュニケーションには落差が必要だが
それは何かと何かのあいだにおける
単純な外部関係ということだけでなく
内部においては未来、もしくは過去という
時間を使うことによってコミュニケーションは可能になる。
むしろ内部において可能なコミュニケーションは
それしかないのだ。

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差し伸べられた手
近くのサイゼリヤによく行く。
思ったよりも手軽でそれなりのものが食べられる。
メニューが豊富とは思わないが。

そして、ウェイトレスが
なかなか可愛らしい。
特に新米の子のぎこちなさがいい。
ぎこちない中に、何かしなければという
気持ちも見てとれるからだ。

他人の気持ちは
本当のところ分からないが
分からないということが
様々な行動の引き金にはなる。
コミュニケーションがありうるのも
そういう落差あってこそである。
落差がないと思えば
「メシ」「フロ」「ネル」で済む。

私とあなたとの間にある溝を覗き込む時
一足飛びにあなたへと向かおうとする人もいる。

鷲田清一は『皮膚へ』で
谷川渥を引きながら女装を
まなざしよりもっと直接的に
相手に流れ込もうとする欲望のあらわれと見る。

「自分の肌を女の肌と想定する屈折した意識のもとで、外からのではなく内からの皮膚感覚に身を委ねようというのである」(谷川渥『文学の皮膚』*孫引き)

これなら女装癖というのもわからなくはない。
女への欲望が自らを女に仕立てることに駆り立てる。
それならば、女自身も「女」という像に
どこか憧れを抱いたまま「男」に抱かれるのだろう。
何かいびつな構図。

皮膚とまなざしが鏡のように反射しあって
けれども、皮膚の内側に自分がいると信じた時に
それは諦めと重なり、無限映しはそこで止まる。
諦めは私とあなたとの間にある溝から溢れてくる。

そうなれば
流されないように手をつなぐことで精一杯なのだ。
ベッドの中でどれだけ近づいても
離れることの恐れは手を空いたままにさせない。

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