雲の湧き上がるように。


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詩論〜自立した詩について
これはmixiという会員制ウェブコミュニティの
「詩は表現ではない」にて書いた記事を転載しています。
(一部修正あり)

詩だけでなく、言葉について考えたものにもなっていると思う。
あと、オートポイエーシスの話と
すごく近いのだけれど、それは興味ある人がそういう目で読んでくれればいい。

***

さて、ボールが来ましたので
そろそろ、「自立した詩」について考えます。

詩が作者の手を離れていても
それでも鑑賞に堪えうるかどうか、
というのはそうでしょう。

僕らが普段おしゃべりする時の
言葉達は、どうしたって向かい合う人と
自分自身の互いの人格に多くを負っています。
その時、言葉は単純な記号ではなく、自立していないのです。

言葉が単純な記号でないものとして
簡単にあげられるのはたとえば
恋人同士で「馬鹿だなぁ」って言ってやるのは
とても愛情にあふれた言葉であるかもしれません。

で、横で聞いてた僕が「いい言葉だ」と思って
「馬鹿だなぁ」と詩のつもりで一言書いたとします。
むろん、発表する場所が人格的なものを持っていて
「ここに書いてある言葉はすべて詩である」
という前提が共有されるならそれは詩かもしれません。

(これは他の諸芸術も悩まされて、鬱になった人がたくさんいたので
「美術館なんか飛び出そうぜ」ってのが流行りましたね)
(あと、便器を美術品として提出したデュシャンは
美術館のその力を逆用したアイデアマンとして著名です)

でも、トイレの落書きにそれが書いてあったら「なにこれ」と思って、
「オマエモナー」と横に書くのが関の山です。
(これだけできたら上出来かも)

だから、自立した詩、言葉とは
まず第一に人格や、場の持つメッセージを超えて
言葉が言葉自身のつながりによって
自己自身を創造する働きでなくてはなりません。

では、それは外部環境から隔てられた構築物なのか、
というと、それは対象が言葉である以上
無理な注文です。
言葉はいつだって言葉の外側を指し示しています。
この機能を失えば何もできません。
だから、確かに内部の言葉を内部の言葉によって
触発しながら、変形させ、新たな展望を作り上げるにしても
それは決して「箱庭」にはならないのです。
(あるいはそうしようとするなら自分の欠陥を承知したうえで、なので
僕の敬愛すべき椎名林檎のようにどこかニヒルなものになるんでしょうか)

少し、元に戻りましょう。
先に進むには今一度助走が必要な気がします。

僕は前に書き込まれた方の
>創造した結果しか与えていない
詩がつまらなく、読み手を触発させる詩こそが
よい詩である、ということには同感です。

この「読み手を触発させる」というのが
箱庭でない言葉のあり方にヒントを与えているのは確かです。
でも、それは「メッセージ」ではないでしょう。

別にメッセージの言葉がよくないわけじゃないのですが
メッセージは人格が強く付着しているために
そこをひっくり返したらメッセージが転倒したり
パロディにされたり、言葉そのものの力としては
弱いものになりそうです。
(なんかポエムってのはこの辺じゃないかな)

(また、一歩戻ろう。
進めるんかな。)

当たり前で簡単なこと、
僕が人に何かを伝えるとき、
それがちゃんと伝えられたなら
その言葉が詩なのではなくて
僕が詩なのだ。と考えてみよう。
僕の「詩」性があなたに
伝えたがっているものを伝えたのだ。

そして、僕が詩を書こうとする時、
僕は、感光紙であり、マイクであり、
文字のひとつひとつであり、そうして
詩が、存在になる。そう考えてみる。

僕があなたに伝えたかったものは、
なかった。
僕はあなたに気持ちを変えてもらいたかった。
嬉しくなってもらったり、悲しくなってもらったり
楽しくなってもらったり、怒りたくなってもらったり。
そうだった。

僕はたとえば
「好きだ」ということを言いたかったんじゃなくて
あなたを喜ばせたかった。

だから、僕は
「好きだ」という言葉を言う必要はなかった。

詩を書くとき、
それは伝えようとするものを伝えるのではなかった。
伝えようとするものはなかった。
それは詩がからっぽだと言っているのではなくて
詩を見せたかったんじゃなくて、
詩を見た人の表情が変わるのを見たかったはずだということで
詩ができあがったものでない、単なる創造の結果ではない
というのはそういうことだ。

でも、なんで「表情が変わるのを見たかったはず」
だなんて断言できるんだ?
それが自立した詩なら、
それが僕を記号におとしめて、生まれ直した
ひとつの存在なら、記号である僕は
そうやって詩を読んでくれた人を通して
やっと息を吹き返すからだ。

僕が人格を持って、言葉を話すとき、
僕の存在があなたを喜ばせて、はじめて
言葉が生きているように。

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