雲の湧き上がるように。


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外部/超越
外部というのは基本的に「間」でしかない。
inter-であって単純に「私」の外ではありえない。

というのも、それが別の世界であるなら、
別の中心性を持つ同心円の領域であるなら
それは「私」とは別の内部であり、
「他我」として措定されるたぐいのものだからだ。

inter-estは公共圏において重要視されるべき概念だが
そこにはある特定の利害が存在し、
客体としての中心がそこに存在する。
それが外部とのコミュニケーションを可能にする。
そこでは中心性の言葉は影響力を失い、
分節的思考が、普遍的な交換を可能にするように働く。
そこでの行為は、中心性に振り分けられず、
まず、分節的世界に蓄積される。

とはいえ、それは客体を中心とした分節的世界であり、
たとえば貨幣を中心として世界が分節されていく。
そして、神であったはずの主体は
その世界の中では客体を中心にひざまずく。

inter-estにもとづいて外部とコミュニケーションするなら
このように、主体性を放棄することが条件になる。

一方で、「死」のようにinter-の向こう側が
完全に虚無という場合もありうる。
ここにコミュニケーションはない。
宇宙が外側にたどりつけないような速度で膨張するように
そこは私たちから逃れていく。
これが、超越である。

超越は世界の完全なる外部であるが、
その完全性ゆえに、世界を作ることもできない。
いかなる尺度も受け付けないので、分節としては働かない。
「生」と「死」の分節とは、いったい何から何を分け隔てたのか。
何も分けていないのである。

ただし、世界にかかわらないわけではなく、
中心性をもとにして広がる同心円的世界の外郭を与える働きを持つ。
可能性の限界である。
起こりうることがすべて起こりうる、世界においての
その可能性の限度を超越が定める。
世界の可能性は中心に据えられた主体性などに託されてはいないのである。

一方で、時間を生きる私たちは
時間の流れの中で超越に直面する。
計測され、分節されうる私たちは同時に
逃れていく現在を生きている。現在は痕跡でしかなく追いつけない、超越である。
モノ自体はこの両義性によって、世界に内属する超越であり、
中心性を維持することができる。

しかし、まだここでは意志などは必要ではないし、
ましてや主体性など必要ではない。
メルロ=ポンティ的な両義性の問題は主体の問題でも
人間の問題でもなく、モノ自体の問題である。
それが主体にかかわるのは私たちもモノ自体であるからだ。

主体の話をするならもう一度時間の次元に降りて、逃れゆく現在から
照準をずらして今ではない時間への意志について考えるべきだろうが、
もう少しだけ、モノ自体が超越であるために必要な認識について考えておこう。

モノ自体はまず、超越として存在している。
それは分類を拒み、分節的世界の意味の源泉としての偶像であるよりも前に
単に存在している。
私たちはそれを所有できない。
なぜなら、それはたどりつけないものであるからで
欲しいと思った魚は、手に入れて
家に持ち帰る頃には鮮度も落ちてまずくなっている。
モノ自体は時間に従順である。

名前の認識は所有を可能にする。
名付けられたものは、私の支配下にあり、
それをコントロールすることができる。
名付けとは分節であり、そこに書き込まれた定義にしたがって
崩れつつあるものは定義に従い補修することができる。
そして、名付けられたものは補修にたいしてもそのものであることを許される。
名付けられたものは変化するが別物にならないのである。

また、名付けられたものは複数のうちの「ひとつ」である。
数えることを可能にする。
空気でさえも容積ではかれるようになる。
そして、このことによって交換(コミュニケーション)に耐えうるようになる。

モノ自体は名付けによって超越から
俗世界に連れ出され、完全なる外部から、内部へと招き入れられる。
それは招いた側からすれば「我が家」への招待である。
(赤ん坊に名前をつけることは、まったくその分かりやすい事例だろう)

しかし、超越は完全に飼いならされない。
魚は腐り、純粋な赤ん坊はぐれてしまったり、
交換には手違いが起こり、
inter-estは不断の衝突の場となる。

そろそろ、「私たち」の話に戻るべきだろう。
inter-の向こう側にいる、「私」と同じ構造を持つ
別の名付け親たちとどのように対話することが可能なのか。

それは引越のあとの話にしよう。
というか、まだ、そこまで思考は追いついてないから(笑

| 境界の思考(同心円、分節) | comments(1) | trackbacks(0) |
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きのうは直面しないです。
しかしここへ存在するはずだったみたい。
| BlogPetの「らっかせい」 | 2005/05/16 1:31 PM |









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