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脳と身体
今はもぐりで大学のゼミに顔を出させていただいとります。

考えるトレーニングにはなる。
というか、ゼミって先生にとっては
こういう使い方ができるんだ、というのも発見なんだが
ちゃんと僕も有効に使わないと、と思って
これからひとつふたつお題を拾って書くことにしようかと思う。

基本的に、
このゼミはアフォーダンスから始まり
環境世界と私とのかかわり、そして
それのリアリティについてなんだろうと思っている。
けれども、まぁ、自信はない。
各論で転戦しながらやってるから。
でも、なんとなく、一気にそこかしこに線を引こうとしてるのだけは分かる。

今日は先週に引き続き
養老猛の唯脳論を肴に話していた。

んで、前回も、色々あったわけだが
脳の中にも身体の各部位に対応する
神経系があってそこで反応しているらしいという話が出てた。
その場合、指をドアに挟んで痛いのは
指なのか、脳の中にある対応する神経系なのか、という話題があった。

唯脳論的には脳の指に対応する神経が痛がってる、と
言った方がよさそうだけれども、
その場合、脳の中に全体像の模型があるようなもんで
その模型の中にも脳があるなら、
そいつの脳の中にも対応する神経系があって、
その中にも模型があって、と無限階の迷路に行くし
駄目なんじゃないのつー言い方があって、
まぁ、僕もそうだと思う。

とはいえ、指が「痛い」という
ある意味をさすことはないだろうと思う。
意味はやはり脳から供給されているだろうし
反射的に指を抜こうとするとしたら
それは痛いからではなく、ただ抜こうとしたのだ。
(これはとってもアフォーダンス的な動きだと思う)

で、そのことについて
今日ゼミに行くまで考えていて
僕としては指が痛いのでもなく、
脳が痛いのでもなく、僕が痛いのだというのが
一番正確だと考えている。
何かを認知するのが一つの知覚だけでないのは明らかで
指を挟まれる瞬間を想像しただけで痛いし
っていうか、仮にドアがクッションで出来ていても
それが堅いドアと信じて挟まれる瞬間になったら
痛くなくても見た目で痛いと思ってしまう。

僕が何気なく壁に触れて
その堅さ、分厚さを感じる時
触覚だけでなく同時に、そこにある冷たさも、
空気も響かない音も感じ取りながら
壁の丈夫さを感じるのである。

そうやって認識が複数の知覚によって
支えられているとするなら、
指が痛い、というのは少なくとも
指の知覚だけに頼っているとは言えない。
また、それゆえに、脳の中にある対応する部位が
どーのこーのという話もはっきり言って意味がない。

また、「僕が」という言い方をしないならば
すべての知覚が分断されるし
親指のふれた壁と人差し指の触れた壁も
同じものとして感じることはできないだろう。

だから、ドアに挟まれても指が痛いのではなくて
脳が痛いのでもなくて
僕が痛いのだと考える。

で、ここまで考えたところで
一般的には指を挟まれて
「僕が痛いよー」って言ってるやつはちょっとキモイ。
なんかずれてる。
(「脳がー」って言ってるやつはさらにキテルね)

もちろん、これは
いったん、脳に返されて
「僕の痛い部分は指だ」って認識された上で
言葉が出てると言って問題はないのだけれど
それもあまりにまどろっこしい。

言葉があらかじめ考えてもないのに出てる、
ということは少し考える必要がある。

ん。
まぁ、それも問題なんだけど
今回のゼミの話に戻さないと。

僕はだから身体と脳を分けること自体が
不思議というか、奇妙に思えるのだけれど
むしろ、そういう思考はわりと一般的で
似たような例でもよければ
古くからある宗教も基本は
魂と身体を分けている。

なんでそういう発想になるのか、
というのがひとつ僕の気になるところで
ゼミの中でも脳と身体のかかわりが中心の話題になってたので
耳を澄ましていたら
「脳と身体の質的な差異というのはどの辺にあるんだ」
というような質問も出てきて、あぁ、
そういうことを考えるべきかなとも思った。

正直、器質的な問題というのは
それはそれで考えるべきかもしれないけれども
それを考えるなら、それ以前に先の問いに答えておく必要があるだろう。
僕はそんな差異はほとんどないんじゃないかと思ってるけど。

帰り道にまた改めて考えていたのは
身体に対比させられるシリーズとして
魂ー意識-脳というものがあるのだということ。

それぞれのタームにおいて
別の身体が考えられていただろうことは
考えやすいけれども、それ以前になんで
そういう区分になるのか、ということを考えようか。

結論から言えば、
それらは身体を動かすものなんだということ。

身体は操り人形で
脳が上から紐をひょいと動かして
操っているというイメージ。
それがこの二分法の根底なんだろう。

でも、魂-意識と脳の間には溝もあって
魂-意識は身体とは別の流れを持って
世界(どの世界かは知らないけど)に存在している。

魂は身体を抜け出して天国やら
六道やら極楽浄土やら、来世やらいっちゃうし、
意識は身体がマラソンして走ってる時でも
おなかすいたーとか、もっとひどいことには
先週見たアニメの続きを考えてさえいるかもしれない。

こういう別の流れが想定されているし
実感もされるから
身体と何かの二項対立が想定されるんだろうと思う。

ただ、脳は明らかに存在が明白で
身体にもっともコミットしてる。
魂はほっとくにしても
何かしてても別のことを考える意識の話を拾うなら
彼はマラソンのあと、ごはんを食べに行くだろうし
あるいはマラソンを抜け出して、今日の放映に間に合うように
とんずらするかもしれない。
脳が意図したことは留保付きでも必ず行動になる。

行動のバッファとしての役割は果たしているとは思うけれども
やはり、脳と身体はいずれ一致するのだと考えられている。
それが脳が身体を操る時のイメージだとは思う。
そうなった時にあるのは
身体と何かの二元論ではなくて、脳を中心とする一元論で
それを唯脳論と言ってもいいかもしれない。
(いやー、それは誤読だよって言われても仕方ないけど)

ただ、ゼミの先生が
脳が身体に「命令」を出しているのか
というのに微妙なこだわりを見せていたのは
そこらへんの事情がある気がする。
(と、唐突にフォローにもならないことを書いてみる)

そういう一元論の枠組みから
私というものを統合しようとしても
ハナから無理な話で、脳を指令塔という位置から外すか
意識の流れと身体の流れのかかわりから
統合するほうがよさそうな気はする。
まぁ、今更脳の話を無視するなんつーのもできないでしょうが。

それにしても、
知覚の話で統合するべきだと言いながら
行動系において分離してる、という話を持ち出すのは
ちょっとねじれすぎかなぁ。

環世界の話が突破口になるのか?
とりあえず、時間のかけすぎはよくないのでこの辺で。

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- / 2006/10/26 11:29 AM