雲の湧き上がるように。


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無限である、ということについて
雨上がりの街は
一言で言えば、うつくしい。

前日まで降っていた雨の中
水しぶきで煙っていた景色から
ベールが取り去られて、鮮明な印象。
とはいえ、快晴のあの光の騒がしさもない。
そうなると、その景色が光学的な存在であるより先に
確かに何かあるのだと見える。


写真に撮りたい景色は多かったけど、
今日はそれはやめて、しっかり
目に留めて憶える。


お金がなさすぎるので
日銭稼ぎに、路上で売る写真は
もう十分あるし。

いつもと同じ道を
反対側の歩道から歩く。
近すぎて見えなかったものが見える。
汚れ、傾き、二階の雑然とした窓際。
そういったものはある定型的なイメージからのズレを伴いながら
また、そういうズレの定型的なイメージに落とし込まれる。
そこには時間があり、生きている人がいるのだというイメージ。

人間はどうしても
生きていることを確認することからはじめなければならない。
この時間だけでなく、あの時間のことも考える生き物だから、
この時間に生きていることを確認しなければ
どうして、あの時間でなくこの時間に働きかけなければいけないか分からない。
別にそれは定型的なイメージでもかまわないだろう。
もちろん、生きているというイメージは
定型的なまま保たれることなどないだろう。
それでも何十年か持てばいい。
崩れたら造ればいい。

choriの詩集を出すにあたって
編集の姫野さんと打ち合わせることが何度かある。
そこでどういう流れの言葉だったか忘れたけれど
「私は無限なんだって、分かったの」と言ってた。

この時間の中に生きる存在という存在は
すべて無限だろうと思う。
それは埋没して、個体でありながら全体につながっており、
その全体に果てはない。
だから、姫野さんは「私」と、限定をつけたけれど
僕はそう思わなくって、僕らはみんな無限なんだ。

ただ、こういう言葉を言えてしまうような存在で、
つまり、無限の外側にいたりする。
その度ごとに入り直すことができる。
それが生きていることを確認することのような気がする。

(レヴィナスの『全体性と無限』はまだ読んでないけれど
無限に外側があるのもおかしな話で、だからこれは
偽の無限であって、レヴィナスが批判する全体性なのかもしれない
それはまた、後で検討しようか)

と、括弧書きでくくった癖に
とはいえ、ここで「生きていることの確認」と
「生きる」ということの違いがそこに相関している気もする。
つまるところ、酔っぱらいがホームから転落しそうな時に
「危ない!」と叫ぶことと、それを拾いあげることの差のような。
それは両立するし、どちらかだけですますこともできる。

ただ、この例えは少し、「生きる」ことの
無数の分岐を無視しすぎているかもしれない。
なぜなら、「危ない!」と叫んで何もできなかったとしても
いや、何も言えず立ちすくんだとしても
そのように生きたには違いない。

全体にのめり込むことと無限であることは
やはり別物で、だからホームに酔っぱらいが落ちる瞬間に
助けるような全体性へと自分を編成するか否かという問題がある
以前から、僕らは無限であるほかない。
というより、その無限は世界が無限であることの確認であって
むしろ、ある全体性への没入から引き離す。
ある固まりから、硬直から引き離す。

その無限を認識したうえで、それでもなお
生きていることを確認し編成していかなくてはならない。

僕は車道を横切る。
信号のない道で、車も向こう50mは
途切れていないけれど、速度を落としてくれる車に感謝しながら渡る。

あまりにお金もないので
そろそろ、日銭稼ぎでもするか。
7日に写真の現像が間に合えば、
その日の昼ぐらいに出町柳あたりででも露天商をしようかと思う。

| 遊歩者のまなざし | comments(0) | trackbacks(0) |
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