雲の湧き上がるように。


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モンスター
今、僕は
フーコーの研究者とフーコーの論文が入ってる
『自己のテクノロジー』と
岩波の1冊でわかる『動物の権利』を読みかけており
それから、中公新書『子どもの価値』を読み始めた。

メモライズが終わる直前には
責任と保護ということについて
その峻別をはかるべしと考えていたわけだが
それについて書いてないのは
これらの本を読みかけのままにしているからだ。

フーコーは精神分析化していく時代を
権力の正当化と強化の流れでとらえているが
そういうものが、また個人の誰かに対する
働きかけで見られるのは、つまり
弱者に対する権利を擁護する立場においても同じである。

権利を立てるには
その対象の「心」を信じる必要があり、
そこには精神分析的なものが生じる。

保護や配慮でしかないものが
彼らの権利のためであるとされるのは
彼ら(動物や子ども)に「心」があるからである。
(あるとみなされるからである、というのが正確か)

しかし、過剰な精神分析は
相手に過剰な「心」を求めているし、
そんなに、何もかも考えながら行動していると僕は思わない。
行動(純粋に形式的な動作)と
行為(主観的に意味付けされた行動)との区別は社会学の中で
かなり基本の概念だが、解釈者によって行為にされているという
側面は否めない。
そこに生じる責任を回避するためには
「正常」から外れることだけであり
コミュニケーションの放棄でしかない。

互いに深読みが激しくなる状況の中で
コミュニケーション断絶のほうが
コストが低く見えてしまうような状況に陥っていないか。
僕が上山さんの引きこもりの考察に
顔を出したりするのはそういう興味もある。

精神分析というものは
基本的に「徴候」の分析である。
形式的にあらわれたものを枠組みを使いながら意味付けていく。

しかし、「徴候」とはなんであるか。
「現象」をある「起源」から派生したものとして
みなすことから始まる。
つまり、「行動」を「心」から派生したものとして
みなすことから始まる。
ごく当然のことに思えるようだが
ここには明確な「意志」を必要としていない。

ある種の予言者は、「徴候」を見て
世界の終末を見る。
それは必然的な結びつきなどないが
予言者にとって「終末のはじまり」がどこかにあり、
その反映が「徴候」としてあらわたのを見て
「終末」の到来を言うのである。
要するに「徴候」が直接的に「終末のはじまり」でなくても
彼は終末のはじまりを断定することができる。
目に見えないところに「終末のはじまり」があるのだから。

精神分析の「徴候」を見るというやり方は
僕には予言者のやり方にしか見えない。
もしかすると、そういう予言者はいつの
時代にも必要とされているのかもしれないが
(意味付けられなかった不吉なものを解釈する人という点で)
今まで、それが大きな運命についてしか
行われなかったのに、
個人の心性に焦点をあわせられているというのは
いったいなんなのだろうか。

天下国家の運命はわからない。
だから、不安になるし、予言者を求める。
それと同じような不安を僕らは
僕ら自身に抱いている。
他者うんぬんとのコミュニケーションの問題よりも
自分自身に不気味なものを抱いているのではないか。

浦沢直樹の『MONSTER』にこんなセリフがある。
「見て!見て!僕の中のモンスターがこんなにおっきくなったよ!」

そして、僕らは
自分自身に対して過剰な配慮をするようになっている。
僕らの権利のために。
そんな権利など、僕は必要とは思えないのだが。

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