雲の湧き上がるように。


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徴候としての言葉
関連性と因果関係は厄介で
関連をすぐに因果に結び付けて
解釈するのはとてもよくない。

新聞の読者投稿欄に
「若者言葉は人間関係を希薄化する」とか
訳のわからんことが書いてあったんだけど
これは「若者言葉」が原因で
「人間関係の希薄化」が結果になっているわけだ。

(無論ここで
「若者言葉」とは何を指すのか曖昧であるとか
「人間関係の希薄化」とは何で、
それは「若者」に実際に起こっているのか
という定義と事実確認を省略してはいけないが
ここではそれは本題ではない)

で、「若者言葉」を使う人の
人間関係が希薄であるという事実があったとして
それは当然、いきなり因果には結びつかない。

人間関係が希薄であるがゆえに
「若者言葉」が案出されている可能性もあるし
第三の要因があって、それが
人間関係を希薄化し、「若者言葉」を生み出している
ことも考えなければならない。

(この第三の要因を考えた時に
「若者言葉」は「人間関係の希薄化」の徴候となる)

以上の三パターンは
関連から因果へと飛躍する時にチェックすべき
最低限のことである。

(また、定義から
どちらかが他方を包含している可能性もある)

因果関係の厄介なところは
それが時間をはらんでいるところであるが
それをさらに厳密に考えると
すでにして、同時に起こっている場合は
因果でもなく、包含でもなく、
互いに互いの条件を作り出している可能性がある。

つまり、互いに互いの未来をあてに
するからこそ、そのような循環が成り立つ。

僕は言葉は最初から徴候なのだと考えた方がしっくりくる。
実際、言葉はここにないもののためにあるのだから
徴候であるほかないだろう。
言葉をもっとも雄弁に語るのは予言者だった。
そして政治家になり、種々のタレントになり
言葉は何かのサインではあっても、
それは解釈を経て現実と交換されるのを待っている。

だからこそ、言葉をこれ以上徴候としてとらえる必要はない。
言葉をごく普通に交換することは、
それ自体、徴候としてとらえるやり方でしかありえないことだからだ。

言葉を意識的に徴候としてとらえる時
過剰に徴候としてみなされるのは
言葉を発している人間である。
その時、言葉を発する人間は「キャラ」という
うすっぺらな住所不定の漂う紙切れに変わってしまう。

言葉の内容ではなく
しょうもないことを話しているという
事実性にかかっている「素」が希少価値を高めているのも
言葉を意識的に徴候としてみなすような傾向があるからだ。

「若者言葉」と「人間関係の希薄化」を結ぶ
第三の要因とは要するに
この「言葉を過剰に徴候としてとらえること」ではないだろうか。

それにしても、こんなことは
言葉が存在した瞬間からある問題でもある。
もっと具体的な社会状況を説明項に持ってきた方が
今の問題としてあらわれている状況をより説明できるだろう。

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