雲の湧き上がるように。


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私は法にもぐりこむ
形式的な行為のルールを問題にすることから
前回は展開の限界について話が進んだけれど
何か違う話をしようとしてた気もする。

というのは、そのルールから
問題提起を行う存在は「私」ではなく
「ルール」であり、「私」は「ルール」の代理人でしかない
という点についてだ。
つまり、そのコミュニケーションの空間に「私」はいない。

「私」がいない、というのは
前回も言ったような目的論的なものと関連している。
目的論は意志に関するものなのだから当然であろう。

代理人であることに意味があるとするなら
そのコミュニケーションのさらに外枠に「私」は
ひっそり隠れているとも言えるが。

しかし、隠れているにせよ、完全に不在にせよ
「私」は当のコミュニケーションの当事者ではない。
当事者は真理であり、正義である。

形式的な行為のルールは断罪し、切断するように働く。
目的論は永遠の闘争であり、和解の不可能性が強調されかねないが
「私」が遠景に遠のいている限り
「私」には断罪が始まるのをもはやとめられない。

代理人である「私」はギロチンが滑り出したのを見て
恐ろしいことだとは思うものの、
「私」のせいではないと思う。

確かに「私」のせいではない。
しかし、責任のないことにしてしまったからこそ
どうしようもない、つまらない結末にも進みうる。

すべてに無理に責任を負う必要はまったくないが
ルールの根底へともぐりこむことで
かろうじて救われるものもあるはずである。
ひとつにはまぎれもなく私自身が救われるのでもあるし。

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