雲の湧き上がるように。


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コミュニケーションは自由に接続しない。
メイさんにキリバン記念で
MDを送ったら、そのお返しで
MDを送ってもらった。

僕をイメージして選曲してくれたのだが
確かに僕の好みにもつながっていてよくかける。

でも、それ以上に、そのMDを聴くと
メイさんのイメージを感じる。
たぶん、僕がメイさんに送ったMDも
メイさんをイメージしたものの
メイさんは僕をイメージして聴いているのだろう。

コミュニケーションは往々にして
その人にかけた言葉は
自分に跳ね返ってくるだろう。

けれども、それはモノローグだと言いたいのではない。
他者と話しているつもりでも
あなたは実のところ自同性の呪縛から逃れられない云々、などと言うのではない。

誰かと誰かとの間に
はじめて言葉がある時、
その言葉は「私」のものでも「あなた」のものでもない。
「私」と「あなた」のあいだにある
時空そのものが言葉になっている。
そして、そこに映し出されるのは
「私」と「あなた」の接点であり
輪郭である。

重要なのは「私」の輪郭でもなく
「あなた」の輪郭でもない、ということだ。
「私」は言葉を発する度に
「私」を新たに彫刻する。
新たに、というのは「あなた」が
「私」でないからこそである。

「私」が多面体である、というのは
「私」が「私」でないものに囲まれているからこそである。

「私」の中心には何もない。
(世界の中心にだって何もない
だから、愛を叫んだって誰もかまやしない)
それにもかかわらず、輪郭があるので
中心を想定することはできる。

しかし、中心を特定しようとするなら
輪郭を固定するほかない。
その時にモノローグがあるわけだが
その試みは挫折を運命付けられている。
というのもモノローグを重ねるほどに
輪郭という輪郭は薄れていくからだ。

そこで、中心を安定させようという試みは
安定的な外部という一見矛盾した概念を必要とする。
わかりやすく例をあげれば神であり、崇拝の対象である。
(大澤真幸なら第三者の審級というだろう)
特定の他者から普遍の他者への移行が
ここで起こる。

私の言葉は世界へと拡散していく。
世界について言及するほど
「私」は安定する。
「私」は流通するのではなく
「私」は所有される。
世界によって、神によって、普遍的な他者によって。

聞き手を限定しない語り、
というのはウェブ上の言葉の大半がそうである。
そうすることによって
「私」は「私」の所有権を得る。

「私」と「あなた」との間に
生まれる空間において
「私」はむしろ所有権を放棄し
「私」を流通させる。

流通は等価交換ではない。
(等価なら、何故、
それが動くというのだ、
ものが動く時にはなんらかの不均衡が常にある)
「私」と「あなた」にある落差が
メディアという経路を通じて明確化され
(あるいはねつ造され)
「私」と「あなた」とのあいだの空間に
(それも一つの世界だ。
互いの関係について言及することは
まわりくどいことだが、
恋愛における「告白」というシーンはまさに「二人の関係」という世界に「私たち」を所有させる)
価値の剰余を発生させる。
(経済が発展する、というのは
まさに流通の成果であり、流通すればするほど
全体の価値は肥大化する)

その価値というのは
理由と言い換えてもいい。
つまり、モノ自体(それは「私」を含む)
にはもともと意味などないし理由もない。
それが流通することによって
理由を与えられる。

「あなた」に言葉を差し向けることは
互いに互いの理由を増やすことになる。
それは未来を互いに築きあげることである。
(理由はすでに常に未来に向かっている)

普遍的な他者に対して、世界に対して
言葉を向ける時、それは
無限に複雑化していく理由を一定の範囲内に
おさえる効果がある。
それは「私」に決断をせまる。
諦めという形かもしれないが
少なくとも、現状認識というのは
こういう範疇にある。
こちらの根っこは基本的に
過去にあるが、未来に対する態度は
より積極的であるともいえる。

世界が確定していくとき
「私」の目の前には地平が開ける。
しかし、その地平が
どのような選択肢を用意しているかは
まったくその時の状況による。

普遍的な他者によって所有された
「私」はもはや、選択肢を選択することはできない。
選択を行うことが自由の発現であり
「私」の生の実感であるとしても
そのためには選択肢が現れていなければならず
その選択肢の並びがまったく悪いものしかない場合もある。

世界をもう一度、不安定にしたところで
それは、うまくいくかどうか分からない。
まったく分からないし、
その作業は生きる実感からは離れた
別の過程である。
何しろ「私」を流通させるのだから。

しかし、それは単純に不自由なのではない。
自由-不自由という直線の上には
まったくあらわれてこない領域の出来事である。
世界を耕す、ということは
要するに「明日」生きるために
必要なことであって、
もはや、「私」の選択する余地のないほど
すべきことである。

そして、このテキストは
普遍的な形式についての考察であって
なにがしか決断を僕に迫っている
ということも明らかだろう。

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