雲の湧き上がるように。


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可処分な生を持て余す。
必要がないことは
してはいけないことではないし
すべきでないことでもない。

単に必要でないだけだ。
今、必要でないことは
そして、明日必要かもしれない。
いつまでも必要でないかもしれない。

別にしてはならないことでなければ
してればいい。

***

たとえば生きる
ということについてこんな風に言ったとしても
たいした力はないかもしれないが
まぁ、生きていてはいけない
などということはないだろう。

しかし、死ぬか生きるかで
迷う人、というのは
生きることに身に余る罪悪を感じている場合がある。

そういう人にたいして
生きることは必要でなくても
生きてていいんだよ、と言ったところで
生きることは必要でないばかりか
してはいけないことなんだと
言われてしまったらどうすればいいんだろう。

というか、禁止は一体
どこからやってくるのか。
「神様はなんにも禁止なんかしてない」
って嘘だろ。
いや、自然状態で禁止されてるものは
ないんだけれど、
禁止ってのは「私」でも「あなた」でもない
誰かがすることだ。
つまり、普遍的な他者。
(いまさらG.H.ミードの「一般的な他者」を思い出した。
社会学専攻なのに。マーガレットではないので御注意)

普遍的な他者というのは
結局、私の意味世界であり、
唯一ではないにしても最大のリアリティだ。

生きることを否定しないようにするためには
この私の意味世界を
改変しなければならず、
それは同時に、「私」自身の
再分節化をうながす。

しかし、それはどのような
形へと改変されるべきなのか。
肯定という肯定がなぎたおされたあとに
何か信頼にたる、肯定があらわれる
というのか。

世界が「私」を飲み込んでしまった
あとに「私」はどうするか。

ひとつには逃亡で
それは中心からの脱出であり
主体の放棄だ。
「普通」という仮想的国を
作り上げている少年少女たちは
たいてい、この戦術をとっている。

時間稼ぎには有効ではあるが
しかし、「普通」からは
のがれられないものだ。
「私」が「私」をほんとうに
捨て切ることはできない。
「私」が「私」の脈絡を
断ち切れないなら、
他者の呼びかけによって
「私」は「私」自身の
普通と向き合わされる。
よって、どこかでは
「私」を肯定しなければならない。

けれども、もはや
「私」が無根拠に「私」を
信用できないとした場合
結局逃げ切れなくなる。
では、根拠を探すのか?
それは方法として有効だろうが
それができるなら、そもそも
生きることに苦しみなどしない。
そして、理由を明確にしたときこそ
本当の結末もやってきてしまうのだ。

生きることに結末などない。
あるいは結末を見据えて
生きることなど、(少なくとも)
今の僕には笑わせるな、と言いたい。
覚悟を決めて穏やかにする
というのなら、さっさと死ね。

違う、結末を知らないから
生きるのだし、
そして、僕の結末など
僕の興味の範囲ではないのだ。

だいぶ取り乱してしまったようだ。

とはいえなんにしろ、
じっさいのところ、結末を
はっきりさせるのでは
生きることは死ぬためにしかない。
死ぬために生きるのではないし
生きるために死ぬのではない。

死は私のためには訪れない。
死は生のためには訪れない。
死と生は無関係だ。

私の死は私のものではない。
しかし、私の生だけは私のものだ。
あぁ、そうか、
僕は貧乏性だから生にしがみつくのか。
しぶといわけだ。

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