雲の湧き上がるように。


<< October 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>


スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています


| - | - | - |
私は生きるために考える。
対象でも方法論でもなく、目的によって
ある言説領域が作られてもいい、
というようなことをイーグルトンが言ってて
なんとなくほっとする。

僕は方法も対象もいい加減だから。

僕は生きるために考えるのでしかないし
考えるために書くほかないだけなのだ。

しかし、僕はどのように生きることを
肯定しようとしているのか、というと、
どのように、というのをすっ飛ばして
生きることそのものを肯定しなければならないという地点にいる。

でも、そこに「人間」が出てくるとややこしい。
ある「同質性」のひとつの
レベルだとして一度扱っていたこともあるが
要するにコミュニケーション可能性において区別されるべきだろう。

しかし、一方でコミュニケーションなるものは
その不可能性によってこそ駆動されている。

この可能-不可能が大雑把ならばもう少し付け加えよう。
可能性はもっとも広義の、そしてそれだけに
純粋な流通という外形において保証された形で
不可能性は相互理解という
等価交換のコミュニケーションを指している。
だから、別にそれ自体は問題ではない。

しかし、「同質性」を保証しているのは
コミュニケーション可能性が互いにあると保証しているのはなんなのか。
これは互いの信頼でしかない。
祈りとしての、願望としての、信頼。

そして、互いの信頼を等価交換のかたちで
得ることができないのだから
(約束を重ねるほどに僕らは不信に満ちあふれる)
「人間」とはそういう飛躍を余儀無くされた存在だ。

そういう飛躍を「自由」の名のもとに肯定してもよい。
しかし、そのリスクを独りで背負うのは
確かにとても無理な注文である。
そのリスクは分散されなければならない。

しかし、「他者」に背負わせることはできない。
それで、今考えているのは「私」と「他者」とのあいだの
時空にそれを預けることは可能かもしれないということだ。

それは市場を創設することである。
マーケット・インだろうがプロダクト・アウトだろうがかまわない。
マーケット・インという手法はしかし、
類型化した顧客を扱うことが限界で
しかも「私」は浮遊するほかない。
(顧客の心理を探ろうとマーケットリサーチを
重ねて、商品という商品が均一化する様を見よ)
キャラというものを重ねていって多角化する「私」は
そのまま成長市場を狙って多角化戦略を推し進めた企業に重なる。
それはブランドイメージを薄め、結果、
企業はコーポレートアイデンティティの確立に忙しい。

確かに流通のためにはひとつ以上の市場を必要とする。
しかし、市場の向こう側にいる顧客の顔だけを見ても駄目である。
「私」が何ものであるかがなければ
市場はすぐに飽和し、均一化し、
流通のための位置エネルギーは消耗してしまう。

「私」が人間として生きるということは
「私」を基点として流通をしなければならない。

問題なのは「私」を流通させるのか
「私」が流通させるのかということかもしれない。
「自由」というのは後者の営みであろう。
「私」が意志を持って話した言葉が
「他者」に届けられ、それに対するリアクションの中で感情が発生する。
(企業が意図を持って作った製品が
顧客に届けられ、購買され、互いに価値が発生する)

「自由」という営みの中で
マーケット・インの(相手にあわせるという)発想がなければ
目の前に届けられても応答されることはないだろう。

しかし、「相手の気持ちを考えなさい」
というあの無責任なフレーズはむしろ
コミュニケーションの不可能性を思い出させる。

「私」を流通させる、というのは
少し前から考えていたことだが
このことは「自由」から離れることに役立たないだろうか。
書いている僕でもピンぼけなので
読んでる人はもっと大変だと思うが
少しつき合って欲しい。

言葉や商品は生産されるが「私」は生産されない。
「私」は「あなた」と同じように
すでにあったからだ。
「私」が流通するというのは
まさしく流通過程でしかない。

解読者だけが存在する。
「私」は投げ出されていて
すでに生きてしまっている。
すでに生きてしまっているという
それだけを元手に流通を開始するのだ。

そこでの「私」はまったく
主体という形をとれない。

ただし、それは単に受け身というだけではない。
コミュニケーションの空間が自律的で
発話主体はあくまでその外部というならば
「私」がそのまま流通するということは
その自律的な流通空間の中に侵入するということだ。

コミュニケーションの外部にいる主体が
裸の王様のような悲しみを背負うならば
コミュニケーション内部に潜り込んだ「私」は
再生産されるコミュニケーション空間の中で
喜びを味わうことができるだろう。

ただ、具体的に「「私」を流通させる」
ということはどういうことなのか。
キャラというのも流通形態のひとつだろう。
しかし、これは明らかに欠陥を抱えている。
というのも再生産のされる余地の少ない安定した形だからだ。
投げ出して流通するのならば
そして、再生産されることこそ必要ならば
キャラが安定していることは
予定調和的なエンディングを望まない限り
まったくもって不毛である。

コミュニケーションが再生産されるというのは
コミュニケーションが次のコミュニケーションを
引っ張ってくるという点にある。
その中で、新たなコミュニケーションが
過去のコミュニケーションの意味を変容させ
全体のコミュニケーションが刷新されていく。

「私」が言葉を流通させている時に
同時に「私」を流通させていると単純に考えてはいけないだろうか。
確かに「私」が何かを流通させない限り
「私」を流通させることはできないだろう。
しかし、それが「私」がコミュニケーションすれば
「私」をコミュニケーションさせることができる
というのはあまりに短絡すぎる。

いかなる種類のコミュニケーションが
「私」を流通させることになるのか。
そういう点について考える必要があるだろう。

| 自由な私について | comments(0) | trackbacks(0) |
スポンサーサイト

| - | - | - |









http://mizutetsu.jugem.cc/trackback/50