雲の湧き上がるように。


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イメージするイメージ
メイさんの「イメージについての考察」について。

派生的なことではあるけど
おもしろいことを見つけたので言及しておく。

「嘗てイメージが意味していたものとは、物事のエッセンシャルな要素であったように思う。例えば、ブランド品を考えてみる。嘗ては、「上品なデザイン」や「丁寧な作り」など、「そのものがそのものであるための中心的要素」がイメージとなっていた」
(中略)
「今日のブランド品のイメージは、「憧れのもの」「持っていることがある種のステータスとなるもの」というような意味をも内包する。」

これを「物事の中心的要素から派生された印象」
こう言ってもいいのだけれど、ことこの「ブランド品」というものに
関して言うならば、このイメージは「他者の欲求」あるいは
「他者のまなざし」である。
そのモノに内在する意味ではなく、
そのモノと「一般的な他者」との関係性にある意味である。

これは確かにメディアがはっきりと関与している。
「流行」をチェックする雑誌などは
掃いて捨てるほどあるが、
そういう雑誌が取り上げているのは
つまるところ「他者のまなざし」であるのだ。

僕は「イメージ」という「イメージ」が
モノ性からは離れていると考えているが
「他者のまなざし」に関するイメージというのは
「モノ」に関するイメージとはとても重要な差異がある。

というのも、このイメージとは
交換にあたっての価値を指してもいるわけだが
同じ「品質」なら等価交換、ということではなく
同じ「他者のまなざし」なら等価交換だという状況になっている。

たとえばそういうことは
見栄がよければ、安くてもいいもの
という発想にもなるだろう。

けれども、それ以上に
「他者のまなざし」の他者とは誰か。
身近なメディアや人から情報を得るしかないのだから
人によって、その基準はずれてくる。

モノに準拠基準がある場合
そのモノを精査すればよかったのだが
もはやそのような手続きは意味をなさない。

かつては「モノの名前はアーケードのように」
人を、出来事をつなげていけただろうが
このような状態ではモノの名前は
せいぜいコミュニティの屋根しか貸さない。

もはやパサージュなどどこかへ行ってしまったのだ。

| 虚構を抱えた現実を抱き締めて | comments(0) | trackbacks(0) |
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