雲の湧き上がるように。


<< August 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>


スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています


| - | - | - |
責任と保護、それぞれの焦点
配慮と自由の話は
保護と責任の話とリンクすると言いました。

つまるところ、
政府および条文の保護と個人の責任ということは
個人対個人の間では配慮と自由という形であらわれるということです。

んで、前に漂流日記で
1)個人が責任を負いつつも政府が保護すべき
2)個人が責任を負わず政府が保護すべき
3)個人が責任を負い、政府は保護する必要はない
4)個人が責任を負わず、政府も保護する必要はない
という四つの類型をあげて
この境界線について考えておこうと言ってました。

で、保護すべきなのは
政府が管轄している個人にとっての外部要因が
個人の自由を侵害している場合になるでしょう。

つまり、利害の調整であり
アクシデントの後の復旧が保護すべき対象になります。
これはおもに結果から導かれるでしょう。
全体の産出額を減少させるような結果を
政府は保護しなければなりません。

責任の有無は意図した結果であるかどうかではなく
問題となっている現象の引き金となった行動が
意識的であるかどうかになります。

二つの軸には結果という定時的なものと
行為と意志という通時的なもののずれがあります。
また、このふたつの軸には
それにともなって焦点も違っていきます。

というのは、保護は個人に向き、
責任は現象に向かうということです。
結果は個人の外にあり、
責任は個人の内側にありますが
それらを具体的にしていく過程では
それぞれを基点にしながら、
反対方向へすれ違っていきます。

責任が作用するのは結局のところ
その現象を系統だてて説明するということであって
現象に意味を与える、その基点として責任があります。

保護はそれをもとに
現象の意味を解析し、帳簿につけ
プラスかマイナスか判断し、
また、自分の管轄であるかそうでないかを判断します。
そして個人に働きかけます。

こういう環流によって責任と保護は
結び付けられるのですが、僕は
これを結果と行為ときちんとわけるべきであると考えています。
つまるところ、責任があれば保護する必要はなく
責任がなければ保護するというのではいけないということです。

というのもこの環流を許すなら
働きかけがほとんど制限されることなく
進行するでしょうから。
そして、また、
責任さえ負えば介入することができない
などということにもなりかねません。

二つのことが同時に言えてしまうのは
責任というものを最終的に断定することができないからですが
そのどちらも問題だと言うのは
個人間での働きかけの制限と
許可証を持った管理者の無限の介入の
両方が同時に可能になってしまうからです。

だから、責任は個人で負いつつも
保護(介入)がありうるという形を考えるべきなのです。
ここで二つのことが同時にありうるなら
その具体的な処置はどのように
相補的な形をとれるでしょうか。

責任を取れ、と言われる時
求められるのは
つまるところ復帰であり、
それを誰が担当するかという点にあります。
しかし、個人が責任を負うべきことであっても
それが全体の利益になるならば
全体の代表者はその責任推遂行を補助すべきなのです。

***

とりあえずここらへんにしよう。
責任主体と全体という話なんだが
ここまでの話は責任主体が全体の内部にいることを前提にしている。
そうでなければ敵意を持った相手の
責任遂行を補助することまで考えることになって
「全体」は自殺するほかなくなることがありうる。

上のやつは基本的な考え方ではあるけど
僕がもっと考えるべきことは
外であり、間であるから、
そのケースを次に考えなくてはいけないだろう。

それと、保護や配慮は
全体に対してする必要はなく、
その非対称性についてもおさえる必要があるだろう。
これは特に内部の問題にあたる。
だって、外部は保護や配慮の担い手にも受け手にもならないから。

この非対称性をもっと先鋭化させると
全体の中での個人の自由の条件というのも
見えてくるのではないかと思う。

|  責任と保護 | comments(0) | trackbacks(0) |
スポンサーサイト

| - | - | - |









http://mizutetsu.jugem.cc/trackback/88