雲の湧き上がるように。


<< August 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>


スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています


| - | - | - |
無限である、ということについて
雨上がりの街は
一言で言えば、うつくしい。

前日まで降っていた雨の中
水しぶきで煙っていた景色から
ベールが取り去られて、鮮明な印象。
とはいえ、快晴のあの光の騒がしさもない。
そうなると、その景色が光学的な存在であるより先に
確かに何かあるのだと見える。


写真に撮りたい景色は多かったけど、
今日はそれはやめて、しっかり
目に留めて憶える。


お金がなさすぎるので
日銭稼ぎに、路上で売る写真は
もう十分あるし。

いつもと同じ道を
反対側の歩道から歩く。
近すぎて見えなかったものが見える。
汚れ、傾き、二階の雑然とした窓際。
そういったものはある定型的なイメージからのズレを伴いながら
また、そういうズレの定型的なイメージに落とし込まれる。
そこには時間があり、生きている人がいるのだというイメージ。

人間はどうしても
生きていることを確認することからはじめなければならない。
この時間だけでなく、あの時間のことも考える生き物だから、
この時間に生きていることを確認しなければ
どうして、あの時間でなくこの時間に働きかけなければいけないか分からない。
別にそれは定型的なイメージでもかまわないだろう。
もちろん、生きているというイメージは
定型的なまま保たれることなどないだろう。
それでも何十年か持てばいい。
崩れたら造ればいい。

choriの詩集を出すにあたって
編集の姫野さんと打ち合わせることが何度かある。
そこでどういう流れの言葉だったか忘れたけれど
「私は無限なんだって、分かったの」と言ってた。

この時間の中に生きる存在という存在は
すべて無限だろうと思う。
それは埋没して、個体でありながら全体につながっており、
その全体に果てはない。
だから、姫野さんは「私」と、限定をつけたけれど
僕はそう思わなくって、僕らはみんな無限なんだ。

ただ、こういう言葉を言えてしまうような存在で、
つまり、無限の外側にいたりする。
その度ごとに入り直すことができる。
それが生きていることを確認することのような気がする。

(レヴィナスの『全体性と無限』はまだ読んでないけれど
無限に外側があるのもおかしな話で、だからこれは
偽の無限であって、レヴィナスが批判する全体性なのかもしれない
それはまた、後で検討しようか)

と、括弧書きでくくった癖に
とはいえ、ここで「生きていることの確認」と
「生きる」ということの違いがそこに相関している気もする。
つまるところ、酔っぱらいがホームから転落しそうな時に
「危ない!」と叫ぶことと、それを拾いあげることの差のような。
それは両立するし、どちらかだけですますこともできる。

ただ、この例えは少し、「生きる」ことの
無数の分岐を無視しすぎているかもしれない。
なぜなら、「危ない!」と叫んで何もできなかったとしても
いや、何も言えず立ちすくんだとしても
そのように生きたには違いない。

全体にのめり込むことと無限であることは
やはり別物で、だからホームに酔っぱらいが落ちる瞬間に
助けるような全体性へと自分を編成するか否かという問題がある
以前から、僕らは無限であるほかない。
というより、その無限は世界が無限であることの確認であって
むしろ、ある全体性への没入から引き離す。
ある固まりから、硬直から引き離す。

その無限を認識したうえで、それでもなお
生きていることを確認し編成していかなくてはならない。

僕は車道を横切る。
信号のない道で、車も向こう50mは
途切れていないけれど、速度を落としてくれる車に感謝しながら渡る。

あまりにお金もないので
そろそろ、日銭稼ぎでもするか。
7日に写真の現像が間に合えば、
その日の昼ぐらいに出町柳あたりででも露天商をしようかと思う。

| 遊歩者のまなざし | comments(0) | trackbacks(0) |
真か偽かということ
ほとんどのものは真偽が論理的に確かめられる
というのは確かなことで、それ自体に疑う余地はない。

真偽は「論理的に」確かめられるが
論理は記号/言葉によってしか記述できない。
イメージで真偽は確定できない。
(それができるとき、すでにそれは一つの記号として立っている)

けれどもことの真偽を確かめることと
現実を認識することにある隔たりはどのようにしても残る。

新書一冊かじりとったラッセルから取り出すと
これは確定記述-不確定記述の問題にかかわっている。
最終的に現実の存在を定義する記号など出てこない。
(出てこないってラッセルは断定しないだろうけど)
固有名も所詮は記述の束でしかない。
直接的なこそあど言葉のような指示語でしか確定記述はありえないが
文節がそれでは確定できないのではないか。

いや、存在に中心性を認めることが出来れば
「これ」と言ったときにある蜜柑の
蜜柑性が、つまり蜜柑の核心さえ確かにあるならば
蜜柑を認めることができる。

蜜柑と聞いたときに皮に包まれた蜜柑なのか
中の食用の果実なのか、オレンジを含んで言っているのか
蜜柑のある部屋を含んで言っているのか、
その時間はいつなのか。
そういったものを切り捨てるときに蜜柑の蜜柑性が役に立つ。
それが最初から蜜柑に内在しているというよりは
蜜柑の蜜柑性はおそらく設定される。

それは論理によってだろうか。
論理は真偽について語る。
しかし、存在は真偽の範疇だろうか。
とある存在が偽であることはあるだろうか。

仮にそれが幻影であって、
その幻影のイメージは偽であるだろうか。
一面では不正確なものだったと言えるが
そのイメージがあらわれたことは真である。

その幻影は役に立たないものであった。
占いは論理で言えばほとんど偽であるとしか言えない。
けれども、それは時に役立つので現代でも
ワイドショーに出てたりして、
「あんた死ぬわよ」とか言ってるわけだ。
(ん、これは存在ではないだろう)


とりあえず、言いたいことをさくっと言っておけば
存在は価値判断の対象であるが、真偽を判別する対象ではない。

ということを言うためには
1.論理は価値判断しないのか
2.存在とは何か。
3.価値判断はどのようにおこなわれるのか

そして、これらが明かされた後には
a.価値のコミュニケーションの位置づけ
b.価値のコミュニケーションの方法
c.間違いの種類
について検討することができるだろう。

| 境界の思考(同心円、分節) | comments(4) | trackbacks(0) |
セクハラについて
はい、ずいぶんと滞ってます。

で、一番最近がセクハラについてだった。

セクハラとアフォーダンスの関係はひとまずおいておきましょう。

セクハラという概念は
「権力関係」を背景に起こる「性的な嫌がらせ」を指すとしましょう。

この定義はとりあえずそのまま受け取るとして
ここには二通りの問題がある。

前半部分の、「権力関係」について
すべての人間の関係で権力がいっさい働かない場面があるだろうか、ということ。
(権力を受動的な体験としてとらえるなら、
誰も権力を行使するつもりがなくてもそこには権力関係がある。
たとえば良心的な教師であっても生徒はそこに権力を嗅ぎ取るだろう。)

次に、「性的な嫌がらせ」というのは
果たして客観的な評価基準にはならないのではないかという点。
本人の主観でしかない。
同意も強制された同意だったと言えば
それは無効になるだろうし。

結局、セクハラという概念を徹底して運用しようとしたら
どうやっても性的関係自体が不可能になるだろう。

ここで考えるべきなのは
こんな不用意な概念がどうして求められるのかだろう。
つまり、この概念が少しでも信用されるとしたら
どのような性的関係、および欲望を肯定しようとしているのか。

権力による性的関係を否定する、ということは
いかなる時にも個人の意志を尊重するべきであって
嫌と言えない状況に追い込むのは卑怯だということだ。

これ自体はとてももっともである。
そして、同じ視点から肯定できる性的関係を探すとしたら
「純愛」というやつなのだろう。

検索したら出てきたんだが
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mmr/glocal/2005/670/jyunai.html
純愛物語の4つの法則として
「物欲を超えるプラトニックな心の通い合い」
「時間を越える一途さ」
「どんな障害も乗り越える強い思い」
「救い(いやし)としての愛」
というのがあげられている。

障害を互いに乗り越えようとする行為によって
合意の動かぬ証とすることもできそうだ。
しかし、こういうのだって権力関係と言えないわけじゃあない。
こんなことされたら「嫌と言えない」か
全面的に拒否してしまいたくもなるかもしれない。
かぐや姫なんて求婚に来た男たちに
難題(障害)を与えて退けたけど、
本当にやり遂げちゃったら嫌と言えなくなって困ってしまう。

で、問題はここからだ。
嫌と言えなくなってしまった後の関係というのは
本当に無条件で無効にすべきなのか。
責任を追及すべきなのか。

最初は嫌と言えないから
しぶしぶつき合ってたけど
意外といい相手かもしれない、と思うようなことはないのか。
こういう心変わりについてセクハラ概念はフォローできない。
(逆に後から嫌なやつだったと思えば
今までのはすべてセクハラだと言うことも可能で
そっちはフォローしてる。)

こういう問題に対処できないのは
セクハラが個人の意志を固まったものとして
とらえているからだと言える。
だからこそ個人の意志を概念の中心に据えることができる。

セクハラはつまるところ
女性の意志が無視されすぎている
という異議申し立てに他ならない。

僕はそういう異議申し立て自体には
問題はないと思う。
ただ、ここでアフォーダンスを引っ張りだすなら
個人の意志はあくまでも行為から逆算された
虚焦点に過ぎず、あるのは当人の行為と
環境との相互作用のみである。
だから、女性側の行為(発言)が無視され、
不当に攻撃されるなら、それを意志が無視されたという形で
反撃するのは分かりやすいし、
社会的な戦略としては悪くない。

けれども、意志というものが仮構であることを
自覚できないならば、滑稽なことにならざるを得ない。
近寄る男はみんなセクハラ人間と言いたければ言ってもいい。
けれども、行為と行為は互いにずれるからこそ
先に進むことがありうるのだ。
まぁ、どうせ徹底的に運用するつもりもないだろうからかまやしないけどさ。

| もぐりゼミ便り。 | comments(10) | trackbacks(0) |
妄想列車2
とある電車で見かけた人。

スネ夫の髪型みたく
前方に平たく張り出してる髪の毛は
もちろんリーゼントではなく、
なんかそういう直毛なんでしょう。
あるいは、カッパという生きものは
皿ではなくて、皿のような髪の毛なのかもしれないので
たぶん、彼はカッパです。

そのカッパは
暖かそうなダウンジャケットを着込んでいて
ショッキングピンクがさっと
グレーの中にラインを引いてあり、
だいぶおめかししてます。
たぶん、カッパの中でも裕福な生まれなのでしょう。

人が色々な目的で電車に乗るように
カッパが電車に乗る目的というのも色々あります。
移動はもちろんのこと、
人間社会の観察であり、
人間社会の征服であり、
あるいはまた、カッパのメスに飽きて
人間のメスを探しに来たのかもしれません。
カッパ社会でもおそらく電車男はヒットしてるでしょうから。

でも、彼のスニーカーのくたびれ具合を見ると
川からあがってだいぶ経つようにも見えるし
あるいは、電車を経由して川に行き、
その度にスニーカーをぐしゃぐしゃにしてしまっているのかもしれません。
いずれにせよ、彼がスニーカーを愛用しているのは間違いなさそうです。

陸を歩くには都合がいいでしょうし、
裕福でないカッパたちの羨望を浴びることもできるでしょう。
あるいはまた、はきつぶしたスニーカーの匂いが
気に入っているのかもしれません。

しかしなんにせよ、
そういった振る舞いを長老たちが快く思うはずもないので
裕福で、社会的によい生まれのカッパであるにせよ、
あまり川には帰りたくないはずです。

川に帰る時には
錦を飾って帰ろうと心に決めているはずです。
だから、彼はこの電車で仕事場に向かうのです。

長老たちに止められながらも
泳いでいった海との境界線で見た色々の魚を捌いて
今日も彼は寿司を握るのです。

現在チェーン店も順調に増えています。
ほとんど成功と言ってもいいにもかかわらず
彼は仕事場で魚を捌き続けます。
帰ることを忘れたわけではないのです。
ただ、そこにほかのカッパたちがやって来ないことが気にかかってしまうのです。
自分が忘れ去られてしまったのではないかという恐れが
彼をひたすらに仕事場に立たせます。

そして、川べりの家と仕事場のあいだの
電車の中でぺたぺたと乾きはじめた髪の毛をさわりながら
通勤するのです。

| 遊歩者のまなざし | comments(1) | trackbacks(0) |
妄想列車1
とある電車で見かけた人。

レイヤードでナチュラルメイクのおそらく女子高生。
名前は多分、田中美沙。知らんけど。

ナチュラルメイクって僕の中では
ボブとかショートな感じがするんだけど、
そうでなくって、ちょっと長めで先を少しスキばさみで
カットした感じで、明るめのブラウンを
メッシュでいれた感じがややすれた感じがして
ナチュラルメイクの目指す純朴さとかち合ってちょっと面白い。

首にぶわっとまいたマフラーは
バーバリーを意識したダイエーにもありそうな
グレーのチェック柄で、スカートも似たようなチェック柄の
学芸員さんがつけてそうなあったかそうな厚みのあるもの。
マフラーはともかく、スカートのその感じは
ナチュラルメイクっぽくもないし、ええ、違和感。

田中さんはたぶん、学校では
吉田加奈とかに恋愛相談されたら
話のいかんにかかわらず、焚き付ける。
徹底的に焚き付ける。

「今の気持ちに素直にならなきゃ駄目だって」

彼女のファッションもそんな感じ。
でも、その鋭い目線は、そういうことは違うことを訴えてる。

この「田中」というありきたりな名字と
ありきたりな家庭があんまり好きになれなくって
それで違うものを探してるんだ。

だから、自分のことよりも
他人のコイバナが好きなのはそのせい。
自分と違う人の話が聴きたくてしょうがないんだ。
うまくいこうがいくまいが、焚き付けたあとの
その動きだした物語を聴くのが好きなんだ。

だから、田中さんは
駅の向こうで待ってる松田君の気持ちなんか気づいちゃいない。
まぁ、それでも物語は動くんだけどね。

| 遊歩者のまなざし | comments(1) | trackbacks(0) |
生きた詩について
大阪で朗読のイベントがあって
choriのマネージャーである僕は
彼がでるということでついていった。

マイクはよくなかったが会場が小さかったので
choriははじめからマイクを使わずに。
そういうライブにおける対応はさすがに慣れてる。

そして、つつがなく終わり
少し、照明を落とした店内で
観にきてくれた人としゃべった。

choriの詩はポップな感じがする、と言われて
僕もとてもそう思う。
だけど付け加えて
ポップなだけでなくてポップアートでなければ
意味はないよ、とも言った。

じゃあアートってなに?と聞かれて、僕は
新しい何かを創造すること、詩なら新しいイメージを創造すること
と答えた。

帰り道電車に乗りながら考えていた。
新しい、というだけでいいのだろうか。
これにも補足が必要なのではないか。

新しい何かとは言っても、
常に新しくあるべきなのだと思う。
それは単に装いが新しくなっているだけではなくて
根本的にこの世界になかった、そしてこれからもないものであるべきだ。
その詩があらわれることによって、新しいイメージが
世界を覆い尽くしてそれが見慣れたものになるというようなものではなく。
永遠に新しいものであるべきなのだ。

これはもちろん理念型としてのアートについてではあるけれども
それは、実現不可能であるどころか、そうではなくて
すべて生きているものがそうだということだろう。

たとえば、この駅で電車を待っている50を過ぎた爺さんは
すでに生まれてから老いていて
いわば古びているが、彼自身は常に新しい。
みな、新しく来る電車を待ちわびている。

生きているものは常に新しい。
だから、ここで考えるのは
モノとして、産み落とされたものが生きるというのはどういうことか。
生きることの模倣で、常に書き足されていくのか?
インタラクティブ技術を利用して対話してくれる詩なのか?

それももしかしたら、
そうなのかもしれない。
しかし、その試みはおそらく生命を作ることに限りなく近づき
もはや詩である理由などないだろう。
そんなら新しい詩を作ろうとか言って女を寝床に誘えばいいだけじゃないか?

詩が、人の言葉の生まれた時から作られ
そのいくつかがその時代を越え、言葉を越え
何度も読み返されているという事実、それらは
生命の模倣でなくとも生きたものであったのではないか、
ということからはじめるほうがいいだろう。

もはや、朝になった街並は
生活感を漂わせている。
街はそれ自体生きものではないが生きている。
そこに人がいるから、だろうか。

そこの中に人がいるかどうかは分からない。
もしかしたら独居老人ばかりで
櫛の歯のように欠け落ちた家ばかりかもしれない。

僕の部屋には、一人暮らしだから
当然誰もいない。
しかし、これもおそらく生きている。
僕が使うからだろうか。
そうかもしれない、が
僕が時折潰すように消す煙草の一本一本は生きているだろうか。

僕はあの朗読会のあった時
別のことも話していたかもしれない。
僕には帰る家がないように思えるから家が欲しい、とか。
それはhouseとかでなくてhomeだけど。

そんなこと言ったのは
I君がケンカしたとか言いながらも
彼女と彼だけでしかないような空気で
その朗読会の一角で話し込んでいるのを見たせいかもしれない。

その次の日はデートだったが
そんなことは特に言わなかった。
お互いあまりによく分かっていることのような気もするし。

BALビルを通りすぎるあたりで
彼女連れのF君を見かけた。
あんまり幸せそうだから水を差すのも悪いかと思って声はかけなかったけど
ああいう雰囲気で僕たちも歩いているのだろうかと考えると
少し恥ずかしく、嬉しかった。

みんな、出会うまでは少しも知らなかった人と
手をつないで歩いて、街のあれこれを
見つけ直したり、作り直したりしている。
そして確かにふたりが生きた街並に変えられていく。

街並は自分と誰かとのあいだにある時に
生きられた街並に変わっていく。
それは単に使うとかいうことではなくて
新しい世界のため、変貌しながら姿をあらわす
新しい目的に向かっていく動きの中で変わっていく。

僕の部屋は僕とそこに訪れるであろう人々のために
あるいは、もしかすると、僕と過去の僕と未来の僕とのあいだで
生きられ変わり続ける。

モノはそれ自体生きることがないけれども
僕らとともに生きることはありうるのだ。

詩もおそらく同じだろう。
新しい今をともに生きるような詩こそが
常に古びずに生き残りうるだろう。
そんな詩ってのはどんなのだろう。

簡単に条件をあげるとすれば
読者がその詩に立ち会える空間を持つことであり
それはつまり、読者がどのような
立ち位置であっても踏み込める建造物なのだと思う。
それは帰るべき家であるかもしれず
通り過ぎる街並であるかもしれず
これから向かう彼女の家であるかもしれない。

そして、僕は彼女の部屋の近くまで送って
バスを待って、自分の部屋に帰った。

| 生きる技法としてのアート | comments(2) | trackbacks(0) |
脳と身体
今はもぐりで大学のゼミに顔を出させていただいとります。

考えるトレーニングにはなる。
というか、ゼミって先生にとっては
こういう使い方ができるんだ、というのも発見なんだが
ちゃんと僕も有効に使わないと、と思って
これからひとつふたつお題を拾って書くことにしようかと思う。

基本的に、
このゼミはアフォーダンスから始まり
環境世界と私とのかかわり、そして
それのリアリティについてなんだろうと思っている。
けれども、まぁ、自信はない。
各論で転戦しながらやってるから。
でも、なんとなく、一気にそこかしこに線を引こうとしてるのだけは分かる。

今日は先週に引き続き
養老猛の唯脳論を肴に話していた。

んで、前回も、色々あったわけだが
脳の中にも身体の各部位に対応する
神経系があってそこで反応しているらしいという話が出てた。
その場合、指をドアに挟んで痛いのは
指なのか、脳の中にある対応する神経系なのか、という話題があった。

唯脳論的には脳の指に対応する神経が痛がってる、と
言った方がよさそうだけれども、
その場合、脳の中に全体像の模型があるようなもんで
その模型の中にも脳があるなら、
そいつの脳の中にも対応する神経系があって、
その中にも模型があって、と無限階の迷路に行くし
駄目なんじゃないのつー言い方があって、
まぁ、僕もそうだと思う。

とはいえ、指が「痛い」という
ある意味をさすことはないだろうと思う。
意味はやはり脳から供給されているだろうし
反射的に指を抜こうとするとしたら
それは痛いからではなく、ただ抜こうとしたのだ。
(これはとってもアフォーダンス的な動きだと思う)

で、そのことについて
今日ゼミに行くまで考えていて
僕としては指が痛いのでもなく、
脳が痛いのでもなく、僕が痛いのだというのが
一番正確だと考えている。
何かを認知するのが一つの知覚だけでないのは明らかで
指を挟まれる瞬間を想像しただけで痛いし
っていうか、仮にドアがクッションで出来ていても
それが堅いドアと信じて挟まれる瞬間になったら
痛くなくても見た目で痛いと思ってしまう。

僕が何気なく壁に触れて
その堅さ、分厚さを感じる時
触覚だけでなく同時に、そこにある冷たさも、
空気も響かない音も感じ取りながら
壁の丈夫さを感じるのである。

そうやって認識が複数の知覚によって
支えられているとするなら、
指が痛い、というのは少なくとも
指の知覚だけに頼っているとは言えない。
また、それゆえに、脳の中にある対応する部位が
どーのこーのという話もはっきり言って意味がない。

また、「僕が」という言い方をしないならば
すべての知覚が分断されるし
親指のふれた壁と人差し指の触れた壁も
同じものとして感じることはできないだろう。

だから、ドアに挟まれても指が痛いのではなくて
脳が痛いのでもなくて
僕が痛いのだと考える。

で、ここまで考えたところで
一般的には指を挟まれて
「僕が痛いよー」って言ってるやつはちょっとキモイ。
なんかずれてる。
(「脳がー」って言ってるやつはさらにキテルね)

もちろん、これは
いったん、脳に返されて
「僕の痛い部分は指だ」って認識された上で
言葉が出てると言って問題はないのだけれど
それもあまりにまどろっこしい。

言葉があらかじめ考えてもないのに出てる、
ということは少し考える必要がある。

ん。
まぁ、それも問題なんだけど
今回のゼミの話に戻さないと。

僕はだから身体と脳を分けること自体が
不思議というか、奇妙に思えるのだけれど
むしろ、そういう思考はわりと一般的で
似たような例でもよければ
古くからある宗教も基本は
魂と身体を分けている。

なんでそういう発想になるのか、
というのがひとつ僕の気になるところで
ゼミの中でも脳と身体のかかわりが中心の話題になってたので
耳を澄ましていたら
「脳と身体の質的な差異というのはどの辺にあるんだ」
というような質問も出てきて、あぁ、
そういうことを考えるべきかなとも思った。

正直、器質的な問題というのは
それはそれで考えるべきかもしれないけれども
それを考えるなら、それ以前に先の問いに答えておく必要があるだろう。
僕はそんな差異はほとんどないんじゃないかと思ってるけど。

帰り道にまた改めて考えていたのは
身体に対比させられるシリーズとして
魂ー意識-脳というものがあるのだということ。

それぞれのタームにおいて
別の身体が考えられていただろうことは
考えやすいけれども、それ以前になんで
そういう区分になるのか、ということを考えようか。

結論から言えば、
それらは身体を動かすものなんだということ。

身体は操り人形で
脳が上から紐をひょいと動かして
操っているというイメージ。
それがこの二分法の根底なんだろう。

でも、魂-意識と脳の間には溝もあって
魂-意識は身体とは別の流れを持って
世界(どの世界かは知らないけど)に存在している。

魂は身体を抜け出して天国やら
六道やら極楽浄土やら、来世やらいっちゃうし、
意識は身体がマラソンして走ってる時でも
おなかすいたーとか、もっとひどいことには
先週見たアニメの続きを考えてさえいるかもしれない。

こういう別の流れが想定されているし
実感もされるから
身体と何かの二項対立が想定されるんだろうと思う。

ただ、脳は明らかに存在が明白で
身体にもっともコミットしてる。
魂はほっとくにしても
何かしてても別のことを考える意識の話を拾うなら
彼はマラソンのあと、ごはんを食べに行くだろうし
あるいはマラソンを抜け出して、今日の放映に間に合うように
とんずらするかもしれない。
脳が意図したことは留保付きでも必ず行動になる。

行動のバッファとしての役割は果たしているとは思うけれども
やはり、脳と身体はいずれ一致するのだと考えられている。
それが脳が身体を操る時のイメージだとは思う。
そうなった時にあるのは
身体と何かの二元論ではなくて、脳を中心とする一元論で
それを唯脳論と言ってもいいかもしれない。
(いやー、それは誤読だよって言われても仕方ないけど)

ただ、ゼミの先生が
脳が身体に「命令」を出しているのか
というのに微妙なこだわりを見せていたのは
そこらへんの事情がある気がする。
(と、唐突にフォローにもならないことを書いてみる)

そういう一元論の枠組みから
私というものを統合しようとしても
ハナから無理な話で、脳を指令塔という位置から外すか
意識の流れと身体の流れのかかわりから
統合するほうがよさそうな気はする。
まぁ、今更脳の話を無視するなんつーのもできないでしょうが。

それにしても、
知覚の話で統合するべきだと言いながら
行動系において分離してる、という話を持ち出すのは
ちょっとねじれすぎかなぁ。

環世界の話が突破口になるのか?
とりあえず、時間のかけすぎはよくないのでこの辺で。

| もぐりゼミ便り。 | comments(0) | trackbacks(1) |
<< | 2/25 | >>