雲の湧き上がるように。


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ポリティカリーコレクト
しばらく間があくと何から書いたらいいのやら、
という感じにもなるのですが、
毎日新聞にPC(ポリティカルコレクト)の話題があったので
それに便乗しよう。

「政治的に正しい」というこれは
物事のニュアンスについて敏感に偏りなく対応し発言せよ
というそういう命題を持っているわけですが
要は「差別語反対」と同じ意味だとおもっときゃいいわけです。

で、しかし、差別語は
どのようにして生まれたかと言えば
ある差別対象者に向けて放たれた、という事実の積み重ねから生まれます。
その言葉は最初から差別語でなかったか
あるいは、存在しなかった。
しかし、それが差別対象者に向けて使われるならわしとなった
というそういうステップを踏んで立派な差別語になります。

差別するためにあらわれた言葉、
というのはごく単純で、それは使わなければいい。
(でも、これもほんとうはそんなに単純なケースだけでない)

まず、争点にすべきは
最初から差別語でなかったはずの言葉たちでしょう。
これには二つのケースが考えられます。
連想によって、差別に結びつく言葉と
理論的解釈によって、その言葉が使われていた環境世界に
差別的関係性が認められる場合。

前者の場合は黒、色付きの、というようなものだったり
後者の場合はチェアマンがチェアパーソンになったり
ということですね。
まぁ、どちらもこじつけといえなくもないですが
それで傷つく人がいるなら、まぁ大変、どうしましょう。

で、後者の場合は頭の固い人々なので
(根はいいやつなんですが)
たいてい言い換えの言葉を用意してくれてます。
でも、これは明らかに偽りであるか
普遍主義にもとづく世界をつまらなくしようとする一派に決まってます。

偽りである、と言える場合は
環境世界に差別的関係性があるにもかかわらず
それを放置している、ということ。
普遍主義にもとづいて世界をつまらなくする、というのは
実際にあらわれている差異を無視して
その境界をボーダレス化しようとする、ということ。

もちろん、無根拠な不平等は解消されるべきなので
それは解消に向けて動くべきです。
一方で、現実にあらわれている差異を無化しようとするなら
当事者たる根拠を失い、それは「生きる」ことを不可能にします。

仕事の時間になったのでいったんここらへんできります。

キーワードは「当事者」であること
そして、それはコミュニケーション的には「レスポンス=責任」としてあらわれること。
これが次のはじまりになります。

そして、最後には
新しく生まれた言葉が最初から差別的現実によってあらわれた場合について論じます。
(これはエイズの場合や、まだ見ぬアンドロイドの場合の話になるでしょう)

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内面を探るというアリバイ工作
行為者の内面をつきとめようとするのは
ある状況の一員として彼を封じ込める作戦と言えるだろう。

状況が明白で単一なら
決定は単純だ。
しかるべき手続きをへて、
しかるべき働きかけがなされるだろう。

ここでの内面とは取捨選択される過程ではなくて
定質的な彼の性向であり、
それはひとつの公式として固定される。

そういう単一の人格者に仕立て上げられた
個人に対する態度は同じく、
すでに決定されている公式(法)に従って決定される。

どうも最近、法に準拠しようとする態度が僕には目につく。
確かに決定は必要なのだが、公式に従った決定は
すでに当事者から離れている。

決定への心情や動機は明らかに当事者のものなのに
それを放棄して、第三者に求められていく。
こうした流れの中では、内面を探るという行為は
実は、彼の意志に働きかけることを目的としてはいず、
むしろ、単に身体への働きかけを許可するための
手続きに変わっている。

そして決断する者は個人的には何も賭けずにすむ。
もちろん、その法システムは何か信頼性を賭けているには違いないが
法システムの内部の問題として処理されるので
どちらも展開はありえない。
決まった結末へと進むだけだ。

はじまりが悲劇なら
終わりも悲劇だと僕は思わないから
どこかで回転させるためには
法システムとは別のレベルの
コミュニケーションチャネルを使わなければいけない。
つまり、間-意味システムのコミュニケーション。

彼が起こした結末とそこに至る意志を
当然のものとして扱わないで話すことはできないか。
(理解するということが、
それを当然のものとするということに近似するのは腹立たしい)
前回、それは異常な対象だというように言ったと思う。

結末と意志とがミスマッチなら異常をきたしており
排除に傾くのはある意味当然である。
それを自らのシステムの欠陥に反映させようとすることは
(社会が悪い、法の整備がなってない)
善良であるが、しかし、当の事象を内包しようとする
飽くなき拡大欲求の裏返しである。

それでもなくて、
できる限り純粋に個人としてのコミュニケーションを
大きな枠組みに回収されるような解析ではなくて、おこなえないものだろうか。

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個人
うー、頭痛い。

なもんで、ほんとは
も少し考えてからアップする予定だった
走り書きをそのまま公開。

さて、「個人」という問題を扱う時に
どのように問いを発するべきだろう。

「「個人」であることは必要か」
「「個人」であるということはどういうことか」

今はこの二つを大きく出しておこう。

前者の問いには
コミュニケーションのために必要だとしておこう。

「個人」という問題系は
責任と強い結びつきを持っている。
あるいは、責任とは「個人」という概念が
成立しなければ考えることすらできない。

そして、また責任とは
コミュニケーションとも縁がある。
すべての流通にはそれぞれ取り決めが必要で
それによって、単なる物々交換以上の
(たとえばツケのような信頼に基づく流通)
広範囲な市場を得ることができる。
その取決めの根本には責任という概念が必要で
責任主体として「個人」が
「私」を流通させる市場には必要なのだ。

もう一つ、
「個人」は境界を持つものだということは
明白だと思われるから、
誰かに何か働きかけをする、
ということが意味を持つためにも
そこに境界があるということはそれだけで
介入のための下地を作ることになる。
もちろん、これはコミュニケーションに含んで
いいことなのだけれど、
有意味な行為を成立させるためにも
個人という概念は要求されているといっていいだろう。

これをコミュニケーションと
少し別に記述するのはつまるところ、
行為する「私」という一人称にとっても
求められているということだ。
私は私の行為が有意味なものとして機能するために
私自身を個人としてみなし、
あなたを個人としてみなす必要がある。

ただ、個人→コミュニケーションというような図式は
正しいように思えるが
個人→行為という図式はそれほど明白ではない。
個人があるからこそ、行為できるのではなく
行為そのものは個人でなくてもよい。
むしろ、行為するからこそ、
個人であるとみなされうると考えるべきだ。
ただし、遡及的な解釈によって
個人→行為という図式がなりたつ。
だから、正確に書こうとするなら

行動 → 個人  →  行為
  (解釈) (条件づけ) 

だから、この場合、解釈者にとって
その人の行動を意味ある行為に昇格させるために
その人を個人としてみなす必要があるということだ。

個人-コミュニケーションは当事者の問題として描かれるが、
個人-行為は解釈者の問題であり、必要なのだ。
そして、後者の解釈者の必要が鏡写しになる場所が、
コミュニケーションにとっての
「個人」という問題系になる。

***

さて、
「個人」とはどのようなものか。

責任ということにからめるならば
「個人」は他者および環境から区別された
境界をもつ、ひとつの統一された責任主体であると言っていいだろう。

しかし、個人はそれほど明瞭な区切りではない。
まず、第一に、個人というものの統一性、
そしてアイデンティティなるものの
つぎはぎされた、欺瞞はたくさんの研究が明らかにするところだ。

次に、個人の行動はすべてが
個人に帰責されているのでないことも
よく知られた事実だ。
それは一つは教育システムや環境や社会に
僕たちが動機付けられているということによるし、
僕らはすべての行動の結果を
予想通りにできるほど万能ではない。

個人の統一性は内的な整合性の問題であり
ある種、その人の質にかかわる定性的な問題である。
そして、行動の問題は
時間軸を含んだ問題系であり
それが統一性の問題とリンクするのが動機付けである。
また、行動の問題のサブカテゴリーに入る
行動の結果というのは
一番人目につき、ここを基準にしてしか
実は個人の何をも推し量れないが
一方で、意図的に隅に追いやられているカテゴリーだ。

これらのカテゴリーは
それぞれ、「個人」のまわりに起きる現象
(個人が引き起こしたと思われる行動、反応すべて)を
どのようにどれだけそれぞれの「個人」に割り振るか
ということになる。

いくつかの局面で
問題にされる部分は違ってくるだろう。
どのような局面でどの部分が問題にされるのか
ということを考えるのは
私が何に注意を払うべきか、
そして、どのような介入が
不当であるか正当であるかという判断をする手助けになるだろう。

***

また、コミュニケーションの問題として
「個人」をとらえるなら、
個人は正常でなければならない。

異常な(理解不能な)個人はもはや
責任主体ではない。
というのも、彼の意志が完全にブラックボックス化するからだ。

***

何か行動が理解できない、
という時には
その行動をする理由がわからないか
行動が何を意味しているのかがわからないか
あるいは、意志と行動のミスマッチか
のいずれかになるだろう。

つまり、意志の不可視性か(何がしたいの?)
行動を読み取るコードの不在か(何やってんの?)
コードの誤使用かということである。(頭おかしいんじゃないの?)

異常であるとみなされるのは
このみっつのうち、三番目である。

意志が見えないのは
観察者に不安を与えるが、
それはそれほど特殊な状況ではない。
機会があれば問うこともできるだろう。

行動の意味が見えないのは
ひとつには行動は思い通りに必ずしもなるわけでないから
結果のコントロールが難しい状況であれば
いたしかたないものとして処理されうる。
また、あるいは、結果としてとらえているものが
違うものの場合があり、観察者には失敗に見えても
本人は成功していると考えている場合もある。

どちらにせよ、
聞けば理解できるかもしれないという期待を
前者ふたつは持たせてくれる。

しかし、意志と行動のミスマッチは
問いつめた後にあらわれる断絶である。
もちろん、ここで教育、矯正という手段を
取ることもありうるが、
そのままではコミュニケーションは不可能であり
有効な介入手段はほとんどないことになってしまう。

(宅間容疑者への死刑は
有効な働きかけをすべて失ったあとの判決である)

***

個人というものは
意志と行動のマッチングという
基礎的な理解のうえに
意志かあるいは行動の不透明さを持つ。

その不透明さとは
私とあなたが別の人間であるということだ。
しかし、それは決定的な断絶であってはならない。

***

とりあえず、個人が何か、
どういう範疇を含んでいるかという
話はこんなもんでいいだろう。

僕がこれから特に考えようとすることは
個人の内面に照準をあわせるということが
いったいどのような必要性から生じ、
また、その結果何が起こるのかということになるだろう。

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個人の走り書き、に入る前の助走
いや、時間がないのよ。

ジークムント・バウマン『リキッド・モダニティ』(大月書店)より

「最近、人気のたかまっているトークショーは、悩みが似たりよったりであることを示しつつ、悩みは、すべて、個人レヴェルで解決されなければならないと、強いメッセージを送る」

***

「正常な個人」という概念は二重の問題をはらみながら、
介入の可能性の境界線になっている。

しかし、それに準拠することでようやく
コミュニケーションも可能になるのである。

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ドアを開けたら/フツーを遠く眺めて
新聞をとろうとドアを開けたら
猫が一匹いた、いや、その手前にも一匹いる。
こちらが気がつくと向こうも気がついて
顔を振り向けてくる。

って、振り向けられた顔の数は
全然思ったより多くて、いかにも多勢に無勢だったので
それ以上外に出ることもせず
新聞をとって戻った。

***

ふと、テレビを見ないなと思う。
テレビは面白いのもあるけど基本的に時間潰しだ。

ただ、テレビの評判というのは
何か世間とリンクしているように思ってしまう。
あるいはフツーという感覚はテレビにあるような。

ということは僕は、自分の周りが
一般的な価値を代表しているとは考えていないのだろう。
確かに偏りはあると思う。

そして、僕自身なんらかの偏りを持っているだろう。
しかし、テレビも所詮は偏っているはずなのに。

僕との距離が遠いことが
フツーの基本条件になるんだろうか。

テレビにフツーを感じる人ってのは
自分に対してほんの少しナルシスティックな
脚色を与えているかもしれない。

それにしてもフツーの選択肢を
すべて取る人が一貫した態度を持っているわけでもないのも事実で、
つまり、そんな人物などあり得なさそうなのだが
どうしても、フツーというのは現象を超えて
ある人物像にたどりついてしまう。

きっとこうして何か世界の中心を作ることで
混沌とした組み合わせの世界はひしゃげて
扁平な地平の、択一式の選択の比較検討可能な、
つまり、合理的な選択であるかどうかをこそ
考えられるような見通しをなんとか手に入れるのだろう。

つまり、中心を作ることで
中心と辺境の分節ができ
未分化な世界像に選択を促す地平がもたらされるわけだ。

そして、僕らは中心を知らない人に預けて
辺境に居座る。居心地はよくないはずだが
たぶん、中心に近づかなければたくさんの
エリアをうろつけるのが気にいっているのだろう。

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新たな秩序のための説得
馬鹿なことをするには
普通のことをしらないと
意図的に馬鹿なことはできない。

しかし、その境界を
分かっているからと言って
彼は自由になったと言うことはできない。
意図的に馬鹿なことばかりするならば
その境界はなおさらに強化されるのであるし
彼は立法者ではなく、遵法者でしかない。

結局、立法者として境界を改めて作り直すということは
別の地平を持ち込むのか、
あるいは境界の位置をずらすかということになる。
位置をずらす場合には、誰かに説明をすることも
比較的容易である。
秩序そのものは安定しており
その運用の適切さだけが問題にされているからである。

しかし別の地平を持ち込む場合は
彼が新たな秩序に従っていると考えられるよりは
彼が正常な判断をくだしえなくなったと
考えられる可能性があり、説明や折衝が難しくなる。

自分の自由を最大限発揮しようとすると
新たな秩序を持ち込む形になるが
それは外見的には正常か異常かという
軸に乗せられてしまいがちなのである。

正常か異常かを見極めるために必要なものとは
説得という意味に働きかけるものであるより
コンスタントな繰り返しの接触である。
異常という分類をされていても
それを跳ね返すためには単純な事実の積み重ねしかない。

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外部と間における他者性
「外部」という言葉が示唆するのは
それに境界があるということで
つまり、分節的なA≠notAが明確になっているということだ。

そしてA≠notAを成立させる地平が
存在しているということも言える。

いつか、僕が「外部」などなくて
「間」しかないのではないかと言った時には
分節であるよりも、同心円状の自律した領域同士を考えていた。

その「間」は不在を示しており
何かがあるわけではない。
関係があるだけで輪郭は不明瞭だ。
ここには地平はなく世界だけがある。

「外部」も「間」も「他者性」を呼び出す。
とはいえ、「他者性」というキーワードは
「外部」と「間」が「地平」と「世界」に対応するのにあわせて
「他者性」も別の様相を見せる。

つまり、外部としての他者は
(対であり、反応であるところの)
「対応」であり
「間」としての他者は
(不在の反映としての)
「不可知」である。

しかし、この「私」という領域が
よく理解された領域として
考えられているなら
その対応としての「他者」は
「不可知」でありうる。
この時、他者は
もっともロマンティックな様相を呈する。

「私」は悲劇を経験し
主役としての地位を得られる。
無限の愛情も「不可知」の
他者にこそ注げるのである。

ここで確かに「私」は我を忘れている。
もともと「私」は私のすべてを知るわけではない。
知ることが「私」をかたどるのではない。
「私」の行為と好意が
「私」をかたどるものである。
「私」の差し向ける
現在と未来に対する反応が
「他者」である。

ところで、もともと不在であった
あの「他者」の領域
「間」とはなんだったのか。
そこはいまだに、そして
互いにとって「他者」である
自律したコミュニケーションの空間であり
「私」と「他者」という
区別そのものを無効にする場だ。

誰のものでもない言葉が
しかし、届いた時に
「私」ではない誰かから届いたと
確信させるのは、それが
「私」の知らない言葉だからである。

知らない言葉なので
「私」でないことが分かるが
「他者」の条件はそこにはない。
あくまでも、対応関係であるか
対応していなければ
もはや、
コミュニケーションにおいてしか
関係しない。

地平においても
世界においても
コミュニケーションは成立するが
その「間」の有無において
知識レベルの落差の有無が生じている。

ただ、この落差は
単に知識レベルというだけでなく
問いかけや呼びかけなど
時間軸に落差を生じさせることによっても
引き起こすことができる。
そうやって落差を作れるなら、
明確な分節があっても
コミュニケーションの膜を作ることで
関係を不安定化し、
新たな展開を呼び起こすことが可能だ。

一方で、いったん不安定化した関係を
どのように安定した分節に
戻すかというとそれは
単純に相手の応答によっており
それは完全に「私」の手を離れた賭けになる。

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