雲の湧き上がるように。


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言葉の虚空
駅ではなぜか、どこの街でも
その駅の放送を真似て
しゃべり続ける男がいる。

(そういえば女という話を聞いたことがない)

男は誰もいない、電車もない
虚空に向かって駅の放送を
ひとりで口にしていた。

きっと彼には意味があるのだろう。
そう言っていれば誰かが
乗り込んでくるかもしれないし。

言葉を口にするというのは
何か必要があるからだろうと思う。

その一方で
言葉を口にするというのは
まったく必要のないことでもあると思う。
それは何かを直接になし得る手段ではないからだ。
現に彼の言葉は誰にも届いていない。

宛先のない言葉は
そのまま消えてしまう。

必要、というのは
最初からあったものではないだろう。
言葉があいだにあるものである限り。
互いに必要である者どうしのあいだに言葉はある。
必要は、捏造されている。

だけれど、それが何か問題だろうか。
言葉は浮いている。
言葉をつかまえようとしても
そこには何もない。もともとは。

それだからこそ、
言葉は、今から抜け出す鍵になる。
無風の駅にも、アナウンスが流れる頃
一陣の風とともに人々が運び込まれる。

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理解なんていらない。
たぶん、卒論のあたりではっきりしてきたのだけど
他者を語る時に「理解」とは言わなくなってきた。

言葉を語る時に
言葉の内容を理解していても
他者を理解している必要はないし
何か働きかけるにしても
同じことだと思う。

誰かを理解する必要はまったくない。

ただし、理解しようとする
ベクトルがあるからこそ
互いの行動は調和に向けて動き出す。
あるいは深刻な対立に向けて。
いずれにせよ、それぞれの行動は
行為として意味付けらる。
そのニ者間で。あるいはそのまなざしの中で。

まなざしを自分の中に住まわせることは
他者を理解することではないが
他者との関係が濃密になるということは
そういうことである。
行動の意味が重層的になり
一言の重みが圧倒的に重くなる。

しかし、私がまなざされているというのは
勘違いかもしれない。
私をまったく見ないのは、すぐに分かるとしても
私を通して何か「男」とか「女」とか
「高給取り」だとか「娼婦」だとか
抽象的な何かを見ているかもしれない。

そういう時は逆にそれに見合う
抽象的なタイプを相手にあてはめて
合格か不合格か確かめ、その上で
その抽象が持っている行動パターンをすればよい。
それは「私」がまなざすのでもなく
「他者」がまなざすのでもなく
歴史がまなざしてきた意味を取り出すということだ。

「私」がまなざし、「他者」がまなざす。
そういう感じをどのようにして確かめるのだろうか。
しかし、確かめてからまなざしているのではないしその必要もない。
(そして、また、そういう感じも
新たに歴史のまなざしを作る過程でしかなく
質的な差があるとすれば歴史の先端に
私とあなたがおり、私が生きていることを実感させてくれるということだ。)
ただ、うまくやる必要があるだけで
理解する必要がないのだから。

生きていく上で必要なのは
うまくやることで理解することではない。
仮説を立てて失敗した実験は
繰り返されるごとに進歩するだろうということは言えるけど。

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つらさを理解する
こんにちわ。テツです。
ちゃんと働いてます。

最初はきっとあっと言う間に
一年が過ぎたりして
なんだかんだでやってけると思ってて
入ったら一年もつかどうか分からなくなって
今、ようやく一年持つかもしれないと思ってます。

でも、どうなんだろうね(苦笑)

まー、それはまったくわかんないわけです。

橋本治のおっさんは
40になれば才能が開花すると思って
それまで待ってたらしいんですが
僕もそれに近い気分です。
僕の気づかないうちに時間が過ぎたら楽なんですが
気づかないうちに過ぎたら、やっぱりそれは
年を喰った意味がないので
喰ったら喰った分だけ肉にして
時折排泄して、新陳代謝をしなきゃならんと思うわけです。

ところで
自分のつらさを人に伝える時に
「お前に俺のつらさがわかってたまるか」
という表明があったりしますが
それでも口走ってるこの人はいったいなんなんでしょうか。

彼のつらさは
「わかられない」ことにあるのでありますが
「わかられないつらさ」は
分かってもらえるかもしれないということなのかもしれません。
そうでなければあえて口走った
その言葉は言葉にもならずに、消えていくでしょう。

まったく同じ辛さを知るということは
まず、あまりないことだと言っていいでしょう。
ただ、「辛さ」というものを知ってると思えばこそ
それを表明することに意味が出てきます。

感情は内容において理解することはできませんが
その外形においては理解することができます。
そこでようやく感情の言葉を交わせるようになります。

「辛さ」はおおざっぱに言えば
願望と現実のギャップにあります。
(感情のほとんどはこの距離によると言ってもいいと考えます)

「分かられない辛さ」は
外形において、望みを叶えられないという「辛さ」以上に
それを伝えられないということにありますが
それなら、彼はむしろ内容について問題にしてるのですが
内容について理解しえることが一度でもあるでしょうか。
だから、逆説的に「分かられない辛さ」は
誰にでも分かることであり、表明する意味があるのです。

しかし、とはいっても
そんなことを言われても内容を共有することは
互いの経験がある問題に関連してひとつの歴史にならなければいけません。
そのためには「分かられない辛さ」を主張する本人が
その内容について話さなければなりません。
そこから先、彼がその辛さを克服することができるかどうかは
彼自身の言葉と行動にゆだねられています。
言われた人は「分からない」人になっているのですから。

外形という外形は
理解を保証するものにはなっています。
だから、「お前には分からない」という言葉を
かけたという事実もなんらかの理解を保証するように働きます。
しかし、これは前提でしかなく、ここから
はじまるほかはないのです。

何よりも戒めるべきは
内容についての過度なウェイトと短気さです。
まぁ、外形や形式にこだわっていても
抽象的になりがちなんでどうかと思いますけどね、
上の文章みたいに。(笑

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